KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ドラマ「金八先生」から学ぶこと

 今の私はテレビドラマを観ない。私の中のテレビドラマは「東京ラブストーリー」で終わってしまっている。なぜテレビドラマを観なくなったかと考えてみると、ドラマの中で、視聴者の感動を誘うべく設定された主人公の苦悩があまりにもバカらしくてギャグとしてしか面白がれないということだ。ああ、純粋に感動していた若い頃が懐かしい。

 きのうたまたま「金八先生」を一部だけだが観た。「金八先生撲滅運動」をしている私にとっては敵情を視察しておかなくてはならない。しかし、やはり出来の悪いギャグマンガとしてしか観られなかった。

 たとえば、番組最後の場面で、生徒に暴行されて自宅で療養している担任の先生(ラサール石井)に葬式の花を生徒の誰かが贈ったという事件が起こる。それに対して金八先生は学級に向かって、その犯人を必ず見つけだすと宣言する。体罰は使えないから、マスコミを使っても、駅前でビラを配ってでもそうすると言う。それに対して生徒の一人は「それは脅迫じゃないですか」と反論する。これは生徒が正しい。明らかに脅迫だ。体罰を使わなくても脅迫はできる。それに対して金八先生は有効な反論ができない。できないから「これは脅迫じゃない。一対一の人間としての……」……正確なせりふを覚えていないが、感情を発散させておしまい。つまりこの場面は、形式的には生徒と先生の「話し合い」を取っているけれども、結論は完全に教師の「押しつけ」なのだ。これによって生徒は何を学ぶか。それは、議論とはいろいろ意見を交わしても、最終的には誰か偉い人が結論を決めるものなのだなあ、ということだ。

 このあとのストーリー展開は想像がつく。荒れてしまった三年B組をラサール石井に代わって受け持つことになった金八先生が立て直していくということなのだろう。熱血と人情をもって。真面目にこの番組を観ている教師がどれくらいいるかわからないが、熱血人情主義を強化するものだとすれば、憂うべきことだ(そんなに単純な教師はいないって?)。

 私個人としては、ラサール石井が論理プロ教師としてケガから復活して、金八先生と対峙するというストーリー展開を希望する。ラサールにはうってつけの役所だと思うんだけど。でも、無理だよね。