- 作者: 森毅,豊田充
- 出版社/メーカー: 旺文社
- 発売日: 1999/11
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 1回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
森毅『東大が倒産する日』(旺文社、1999、1500円)を読む。対談形式でしゃべり言葉も残してあって読みやすい。その中のトピックをいくつかをメモしておく。
- 焦点は大学の学部にあるのではなくて、大学院にある。
これまでずっと、下を見すぎてきた、つまり、中学は小学校に似てくる、高校は中学に似てくる、大学は高校に似てくるということ。そうじゃなくて、上を見て、どれくらいのことができるかを考えた方が生産的ではないか。高校は大学を見てどれくらいできるかを考える。大学の学部は大学院を見て、どこまでできるかを考えるのが良い。
- アメリカでは教員の評価は、5:3:2くらいで、研究:教育:評判。
教育というのは授業評価も含めるが、それだけではなくて、どれくらい優秀な弟子を育てているかとか、Ph.Dをどれくらい出しているかも評価される。評判というのは、社会的な活動。テレビ出演や講演会をすると、日本では逆に評価されて、まわりから白い目で見られたりするけれども、アメリカではプラスの評価になる。大学の宣伝になるわけだから。
- 大学生が変わってきてませんか、ということをよく聞かれるが、それじゃ教授の学力はどうなのよ。
同じことだ。
- ハードな学力とソフトな学力とがある。
ハードな学力とは知識とか技能、ソフトな学力は文化力のようなもの。今はハードな学力を要求される分量が非常に大きくなってきている。それだけ先人の業績が積み重ねられているから。ハードな学力の要求が大きくなればなるだけ、ソフトな学力をつけることの意味が大きくなる。しかし、それは落ちてきている。物事をおもしろがる能力が下がってきている。
- ディベートなどがもてはやされているけれど、討論よりも「おしゃべり」が大切だ。
討論というのはゲーム。自分の知識や思想を消費するゲームだ。一方、おしゃべりはそこから何らかのヒントを得るものだ。研究教育集会などに出ると、「こんな授業をしたら子供がこんなふうに変わりました」という話ばかりが出てくるが、それは本当は役に立たない。「こんなふうにしようとしたけれども、乗ってくれなかった」とか「こんな試みをしたが失敗した」というような話が本当に役に立つ。しかし、そういう話は非公式なおしゃべりの中でしか出てこない。
- 少人数教育がまずいのは、それで目が行き届きすぎること。
できるだけプレッシャーをかけないようにすることが大切。欧米では割とリベラルなので少人数でも、目を届かせないようにしている。日本の少人数では、学生と教師がべたっとしてしまうとうまくいかないのではないか。