KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

大学の教員と組織への貢献

 大学の教員にとって、自分が所属している組織と自分との関係は不思議である。組織に属しているようでいて、実質的には属していない。たとえば私は大学の教育学部に属している。つまりそこが私の職場であるが、それ以上のことはない。私に命令する上司もいないし、部下もいない。その意味では独立している。その場所で働いているという意識はあっても、その組織のために働いているという意識は薄い。その場所で良い仕事をすれば、結果としてその組織のためになるということは確かではあるが、結果としてもその組織のためになったのかどうかは非常にあいまいである。

 こういう状況で人のできることは「よかれ」と思って仕事をすることだ。こうすればたぶんいい方向に進むだろうという見切りで仕事をする。しかし、「よかれ」と思ってした仕事が、まったくのピントはずれであることは十分にあり得る。おそらく大学教員は皆それぞれ「よかれ」と思って仕事をしている。結果としてそれがすべてバラバラなのである。大学が有機的な組織として機能していないのではないかという意見はここから出発している。有機的というのは、部分が全体をコントロールし、また全体が部分をコントロールしているような関係を指している。大学の教員組織は有機的ではない。

 たとえば、「私はこの大学のこの学部のために働いているし、貢献しているつもりだ」と主張することは意味のあることなのかどうか。つまるところこの言明はすべての教員がなし得るものであるし、さらには「その中でも私はとりわけ貢献している」とまで主張する人も少なくないはずだ。つまりこの主張は意味がない。それどころかそれを聞いた人から「貢献しているのはあなただけではない。思い上がるな」という反感さえ買うことだろう。その反感は正当なものだ。なぜなら貢献しているかどうかを判定するにはなんらかの基準が必要だが、その基準は共有化されていないのだ。だからそれぞれの基準で、それぞれが貢献しているということになる。その中で自分だけが貢献していると言うことは、思い上がりと取られても仕方がない。

 貢献の判定基準が共有化されていないということは、学部組織が組織でないことの根拠のひとつになる。会社であれば、売り上げが上がったとか、新商品を開発したとか、マーケティングが当たったとか、隠し芸で部内の飲み会を楽しくしたなどの明快な基準がある。受験生をたくさん集めてくるとか、学生の中から国家試験の合格者をたくさん出すとか、学生の評判のいい面白い授業をするとか、特許をたくさん取るとか、論文をたくさん書くといったことは、判定基準になりうるが、あからさまには使われていない。判定基準が多様だからいいのだという話もある。しかし、そうであれば給与も年数によって一律というのは無理があるような気がする。しかし逆に、一律というのは評価基準がないということの証明でもある。授業の成績は出席だけで決めます、というのに似ている。

 大学淘汰の時代になって、それぞれが特色を生かして、教育系大学や研究系大学として生き延びをはかるようになる。そうなったときに組織への貢献の判定基準は少数に絞られるだろう。その時になって初めて「私はこの大学に貢献している」という言明に意味が添えられることになる。