KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

パームコンピュータ

 事情により、夏休みをとる。明日から東京に出張。日曜日は卒業生と遊ぶ予定。しかし、いったいどういう遊びをすれば、彼女たちが喜ぶのかよくわかっていなかったりする。とりあえず、池袋のナンジャタウンというのに行こうということになってるが、それがどういうものかよくわかっていない。まあ、いいか。要は話をしたいだけなのであるし。

 「モバイルなんかやめておけ」というスタンスを取っている。それで、PDAというのか、パームコンピュータにも無関心を装ってきた。紙の手帳の方が、一覧性に富んでいるし、融通が利く。メモを取るなら、「マイブック」がある、ということで。

 しかし、最近パームコンピュータの新製品が次々と出てきている。ユーザが拡大しているということなのだろうか。それは、デスクトップのパソコンとも情報のやり取りができるらしい。なにやら便利そうだ。

 D.A.ノーマンの「コンピュータを隠せ、アナログ発想でいこう」という本を半分ほど読んだ(原題は「見えないコンピュータ」)。その主張は、コンピュータはインフラなのであるから、目立たず、それを使っているという意識なく使えるようにするべきだ、というもの。この意味では、パームコンピュータは、コンピュータというよりも、電子手帳という感触が強いので、見えないコンピュータに一歩近づいているのかもしれない。

 メモは手書きの方がいいと思っている。もちろんパームコンピュータにも「手書きモード」のようなものはある。しかし、それはあくまでもタイプされる前の臨時処理として位置づけられているのではないか。最終的な形は、きれいにタイプされ、レイアウトされたものである。手書きモードはその前段階にすぎない。

 まとまった分量の文章を書くような仕事をする場合、まず紙の上にイメージやメモを書いていく人は多い。そのメモが充実していればいるほど、パソコンに向かったときの仕事は速く進む。しかし、最近は、メモが充実するまで紙に書きつつ考えるような「こらえ性」がなくなったな、と感じる。ちょっとでもメモができたなら、すぐにでもキーボードを使って打ち込んでいくということが多くなった。

 つまり、メモの段階ではなんとなく不安なのだ。それは安定してもいないし、形がはっきりしているわけでもない。一方、キーボードで打ち込んだものははっきりしている。デジタルの形になってしまえば、あやふやで曖昧なところは一切ないのだ。それが手書きのメモを、早くデジタル化したいと思う心理なのだろう。

 しかし、紙の上で手書きのメモを見ながら考えるのと、スクリーンの上でタイプされたものを見ながら考えるのとでは、いったいどちらが良いのだろう。