KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

手品型の授業

奈良女子大学文学部附属中等学校で開かれている研究大会に参加した。

もともと、公開授業を見るのはあまり好きではない。毎回の授業を積み重ねて全体がわかるわけであるから、一回の授業を見たからといってどうこういえるわけではない。また、先生の晴れ舞台という感じがいやだ。生徒もそれを察知して「よい授業」になるように協力したりする。そういう作り物の世界が嫌いだ。授業ってもっと地味で、実質的なものでしょう?

しかし、今回は特別な人からの依頼があったので、助言者として参加した。助言者というのも、そんなわけで、おもはゆいのではあるけれども。

結果として、参加して良かった。国語の授業そのものは、教えるべき内容をよく吟味したものであったし、それを提示するためのシナリオもまたよく練られたものだった。生徒も協力的だった。協力というのは、先生と生徒の信頼がなければできないことであるし、信頼関係はよい授業を成功させる前提条件だ。

国語以外の授業の紹介も見た。

感じるのは「手品型授業」という文化だ。手品型授業というのは、「こうしてごらん、こうなるでしょ、こうすると、こうなる、さらに、こうすると、こうなる」といろいろ生徒にやらせてみてから、最後に「その秘密はこういうことなんだよ」とネタあかしをするという授業の「型」だ。これはその「手品」がよっぽどおもしろいものであれば、生徒を引きつけるかもしれない。しかし、そういうことはほとんどないのではないか。むしろ、「何やらせるんだろうな、この先生」と思われているのが関の山だったりする。先生の空振りである。

「いろいろやらせてみて、失敗することで学ぶからいいのです」という意見もある。しかし、たとえ最初から種明かしをしたとしても、失敗するのである。だから「わざわざ」失敗させる必要はこれっぽちもないのである。人間はうまくやろうと思っても失敗する。そうした失敗からなら何かを学ぶ。しかし、先生の方から失敗させるようにしかける(あるいはわざと教えない)のは、教育工学的には無意味だ。卑怯だといってもいい。こういう先生は生徒が成功することをおそれているようにも見える。もし成功してしまったら教えることがない、と。そう、その通り。もし、一発で成功するようなことであれば、そもそも「教える」必要はない。だからそれは授業で取り上げるに値しないことだ。すでにできることを時間を割いて教える意味がどこにある? そういうことをしていると授業はどんどん幼稚になってゆく。

結局、私はこの手品型授業が大嫌いなのである。しかし、手品型授業の文化は学校に蔓延しているように見える。そしてそれを誰も不思議に思わない。