KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教育心理学会@熊本2日目

教育心理学会の2日目。

午前中は自分のポスター発表。限定された人数だが、中身の濃い話ができてかなり満足。だいたいは顔見知りの研究者だけれども、中にはわざわざ私を訪ねてくれる人もいて、うれしい。そういうケースはたいてい私のホームページを読んでいます、ということだ。やはり、このホームページの果たす役割は小さくない。

午後はnarrativeのシンポジウムを聞きに行く。うん、おもしろかった。阪神地震被災者の語りの例などを聞いて、なるほどと思う。

理論的背景には、語られない記憶は個人的なものだけれども、それが「語り」(誰かとのコミュニケーション)になった瞬間に社会的に構成されるということ、また逆に、語りが個人的な記憶にしまわれるとき、個人化される。そのプロセスが社会的構成ということになる。その意味で、語りと記憶は何度も往復する。社会的なコミュニケーションだけでもなく、また、個人的な思索だけでもない。その往復がポイントになるということ。

語りが社会的に構成されるときに重要な要因は、誰がそれを聞いているかということ。聞き手は重要であるし、また聞き手がリサーチャーである場合は、それがまた語りを危うくする要因ともなること。

モスコビッチのいう「我々の記憶は社会の中であらかじめ分節化されている」という主張は、ナイサーの知覚循環論に似ている。我々は期待するものを見るし、期待がなければ見えない。我々は期待するものを理解するし、期待するものがすでになければ理解できない。理解とはその循環の中で少しずつ領域を広げていくことに他ならない。

学会は明日が最終日だが、飛行機が取れなかったので、今日帰ってきた。熊本はいいところだ。できればもう少しいたかった。