KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

マクナミー、ガーゲン『ナラティブ・セラピー』

ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践

ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践

<専門性と客観性を備えた認識者>というのが、20世紀の臨床家たちが自ら描いた自己イメージである。このような治療者が、慎重な観察と考慮の末に正常と異常についての判断を下す。一方、機能不全に悩むのは一般の人々であり、彼らは専門家の指示に従うことによって満足ゆく生活が営めるようになるとされる。ここで興味深いのは、科学者としての治療者からみれば、これらの機能不全の原因の多くは、その人が科学者たちのような<理想的認識者>としてふるまえないことにあるとされる点である。かくして、フロイトは欠陥の源となるイドの無意識的作用を自我(理性)の意識的作用に置き換えようとしたし、ホーナイは患者の持つ基底不安を合理的洞察によって克服することを試み、対象関係論者やロジャース派はクライエントが自律的に行動できるように変容する過程を探求し、行動療法家は個人の再学習を促す技術を開発し、認知療法家は個人の意思決定過程を変更させようとしてきた。

社会構成主義は、現代心理学の「五つの聖なるもの」を批判します。

  • 客観的な社会調査研究←何が社会的現実かは本当には知ることができず、統計や検定は一種の信仰であるとしたら?
  • 自己←個人のアイデンティティは人の内部にあるのではなく、組織の中にあるのでもなく、流れゆく歴史の延長にあるとしたら?
  • 発達心理学←どの時代にもあてはまる普遍的な発達過程は存在しないとしたら?
  • 感情←感情とは人のコミュニケーションの複雑な網の目の一部に過ぎず、内在的な特別な状態ではないとしたら?
  • レベル←レベル、階層性、包含関係などというものは存在せず、ただ互いに影響しあう要因のセットであるとしたら?

このような背景を持った社会構成主義に基づくセラピーの形というのはどのようなものでしょうか。本の中で紹介されている印象的な例は「リフレクティング・チーム」です。これは今まで特権的な立場にあった治療チームが家族について話していることを、その家族に聞いてもらうというやり方です。治療的システムとはそこに参与する人たちの言語的システムであり、セラピストは治療的会話に参与し、促進するという考えに基づいています。そこでは、セラピストは無知の姿勢から出発し、クライエントに好奇心を持ち、クライエントから学び、そのストーリーに耳を傾け、クライエントと相互協力的なものになります。そこでは、クライエントは自分を主張したり、防御する必要がなくなり、自由に会話が展開する空間になります。

家族療法の領域では、サイバネティクスに基づくシステミックな考え方をとっていました。つまり、家族の間ではなんらかの家族ゲームが行われており、治療グループはそれにどのような戦略を持って対抗していくかがポイントだと考えられていました。しかし、家族員はそれぞれが相手をコントロールしようとするゲームをしているのではなく、「一緒にいることの意義を見つけようとしている」のではないかという大きな理論的変更をしました。たとえ権力闘争に見えるような行為をしても、それは関係の意味を見つけるための1つの選択に過ぎないのであって、まだ見えない可能性が閉ざされているときに取られる戦略であると。

ガーゲン先生などの他の社会構成主義の本を読んだときと同じような衝撃を受ける本ですが、このようなセラピーは、セラピストも難しいでしょうし、セラピーそのものが長引いてしまう可能性も高いでしょう。「何を根拠にセラピーは短い方がいいと言われるのですか?」と問われそうですが。

臨床家は家族の行動に介入干渉しすぎると、<操作的治療者>といわれるだろう。家族をそのままにほっておこうと野放しにすると<無責任な治療者>と呼ばれる。社会制度からくる抑圧のみを強調する臨床だと<改革派治療者>といわれ、治療場面をコントロールする事にだけ熱心だと、<社会工学的治療者>となる恐れがある。しかし立場(役柄)を全く取らない事は不可能なので、要はある立場を取ったらまたすぐにそれをより広い文脈や、その場の状況の中に置き直してみる。そしてこの行ったり来たりの作業を通して治療者自身もひとつの形にとどまらず、新しい役柄を作っていく。この臨床スタンスは、治療者が自分の『信ずるところ』に対していい意味での<どっちつかず>を達成することを意味する。自分の信念を諦める苦しさはあるにしても。