KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

K. J. ガーゲン『社会構成主義の理論と実践』

社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる

社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる

『あなたへの社会構成主義』(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20050308/p1)を読み終えてから、すぐにこの本を読み始めたのだけれども、読み終えるまでにかなりの日数が必要だった。それは難解だからというのではなく、400ページを超える大著なのに、密度が濃く、どこを読んでも惹きつけられるものがあるので、なかなかページが進まなかったからだ。読み飛ばしを許さない迫力があるということだな。

本章では、「頭の中の知識」という、長い間自明とされてきた観念に疑問を唱えてきた。この観念は維持できるのだろうか?……行動主義は、その主張と完全に調和した言説的文脈から登場した。すなわち、行動主義は、支配的な科学哲学によって強く支持されたし、方法についての適切な言説にも恵まれていた。その後、論理実証主義のメタ理論も実証的方法論も衰退したが、「頭の中の知識」という観念を支持する有力な後継理論は、未だ現れていない。そのため、今日の認知理論の立場は、不安定である。というのも、認知理論の知識観は、それを支持する科学哲学(メタ理論)をもたず、また、その基本的前提と相反する方法論に依拠しているからだ。

同様に、仮説検証的研究の大多数は、社会的予測という要請にも応えることができない。なぜならば、仮説検証的研究は、たいてい、当該の理論の妥当性を証明するという目的で行われるからだ。つまり、そのような研究で注目される行動は、単に実験室における測定やコントロールに好都合という理由で選ばれているのであって、社会的には大して重要なものではない。例えば、ボタン押し、質問紙のマル付け、不自然なゲームでの成功、実験装置での成績などについていかによい予測をしようとも、そんなものは社会にとってほとんど関心を惹くに値しない。

社会構成主義は、従来の研究実践を拡張しようとする。研究の確信のために重要なのは、次の三点である。第一は脱構築である。そこでは、真実、理性、善についてのあらゆる前提が疑問に付される---さらに、疑問そのものの前提も疑問に付される。第二は、民主化である。そこでは、科学の重大な対話に参加する人々の範囲が拡張される。第三は、再構成である。そこでは、文化の変容に向けて、新たなリアリティと実践が作り上げられる。

社会構成主義が強く批判するのは、「これが最終的な、ゆるぎない理論である」との主張であり、その批判の対象には当然「社会構成主義は絶対的に正しい」という主張も含まれる。

道徳的行為とは何かという問題は、論理実証主義や行動科学など経験主義に立つほとんどの研究者にとって、取り上げるに値する問題ではなくなる。経験主義の哲学や科学にとっては、「それが何であるか」こそが重要かつ回答可能な問題であって、「それがいかにあるべきか」という問題は回答不能であるからだ---それは、単なる形而上学的問題か、それ以下の問題である。

社会構成主義の研究においては、実証的方法は、命題の妥当性を証明するために使われるのではない。すなわち、述べてきたような社会構成主義的研究の関心は、命題の真偽を確定することにあるのではない。そうではなくて、その関心は、研究による社会生活の再構成から、いかなる社会的・知的効用が得られるかという点にある。社会構成主義の研究は、現在の世界認識の枠組みに対して、重要な代替案を提供し、それによって、行為の新たな代替案を提供する。この意味で、多くの「実証」研究は、本質的に、レトリカルな機能をもっている。すなわち、実証研究によって、さまざまな理論が表現力をもつことになる。それは、抽象的な理論言語を日常生活の言葉に翻訳し、それをもって日常生活を刷新するための糧とするのである。

物語は単なる物語ではない。物語は、それ自身が状況に埋め込まれた行為であり、発話内効力をもつ遂行である。それは、社会的関係性の世界を作り、維持し、変容させる。このように考えるとクライアントとセラピストが、二者関係の内部で、現実的で、美的で、高揚的と思われる新たな自己理解の様式を作り上げる、というのは十分ではない。さらに重要なのは、セラピーの文脈内での意味のダンスではなく、新たな意味の形成が、セラピーの文脈を離れた社会領域で有用かどうかである。

言語やテキストそれ自体は意味をもたないし、それだけではコミュニケーションは不可能である。言語が意味を生成するのは、人間の相互作用の領域に位置づけられることによってのみである。意味する力を言語に与えるのは人間の交流であり、したがって、人間の交流こそが検討の中心に据えられなければならない。要するに、テキスト性は共同性に置き換えられなければならない。この置き換えによって、テキストの意味について主張されてきたことの多くを、関係性理論の立場から再構成することができるようになる。