KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

自主シンポ:授業介入研究の新たな可能性

デザインベース研究(Ann Brown, 1992):クラスルームは1つのシステムだから、全体から1つの側面だけを取り出してそれを論じることは困難である。

麻柄さんの質問は、「村山さんは良い授業をしているのだから、その属性を研究成果として論文にし、学会もそれを認めるべきだ。テスト問題の種類の学習に与える影響は、その授業の出し殻に過ぎないのではないか。というか、それだけの授業をやっておいて、成果はそれだけなの?という感じがある」という至極全うなものだった。対して、村山さんは、授業の内容は別の学会で発表していると答えた。

麻柄さんの質問は全うだが、村山さんの責任ではない。研究者として、「これは自分の研究の中心部分ではないが、論文形式になりやすいものとしてその一端を論文化した(せざるを得なかった)」ということは十分あり得るから。そして授業の中心部分を記述しようとして、実際はそれを論文化することが困難であることは、実践研究をやっている人なら誰でも感じている。

麻柄さんが付け加えた「ただしパッケージじゃだめだよ」ということばの意味を測りかねている。その後、鹿毛さんも、別のシンポジウムで「パッケージじゃなくて」という。なんなの?