KogoLab Research & Review

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宇佐美寛『国語教育は言語技術教育である』

国語教育は言語技術教育である (宇佐美寛・問題意識集)

国語教育は言語技術教育である (宇佐美寛・問題意識集)

研究し文章を書くのは、それが他者の主張とは異なるからである。他者の理論と同じことなら、なぜ活字にしてひとに読ませる必要があるのか。

このような序をもって出版されている『宇佐美寛・問題意識集』の一冊。

技術を学ぶことを学習の目的にする。そうすると、目的は他には無いことになる。目的は技術の中に吸収される。……技術を学ぶこと自体を目的にすれば、個人はそれ以外の目的を学校から押しつけられずにすむ。目的を選ぶのは個人の自由になる。

学校は、個人が技術を学習するのを助ける。その技術を何の目的に使うかは個人が自分で決める。これが自由な社会のあり方である。言語技術教育は、個人が自分で思想を持つ自由を保障する。思想を個人に押しつける思想教育を排する。

これが本巻の序。まったくしびれる。

内容は徹底的に具体的な位置から、書かれたものを取り上げ、批判する。

たとえば、「事実と意見を区別して書く」という指導法はカテゴリー間違いであって、迷信であるという。事実の反対は非事実であって、意見ではない。事実について述べればそれが意見になる。書かれたものはすべてが作者の意見なのである、と。だから、「……と思う」や「……ではなかろうか」という文体は意味がない。逆にすべてを断定したほうがいい(意見なのだから)。断定すれば、文と文の飛躍が気になるから、その間に一文入れようという気になってくる。書くとはそういうことなのだ。

もうひとつ、段落ではなく文を指導せよ、という主張。ちなみにこの記事は、主張を裏付けるために2ページ半を一段落で書かれている(でもやっぱり改行なしは読みにくいです)。段落を指導する前に、文内の論理構造と文間の論理構造を指導すべきだという。「これくらいしつこく書いたからもういいだろう」と思って段落を改めるのだと。さらに、段落を使うのは、コミュニケーション効果のためだから、「はじめ、なか、おわり」のような決まり切った構成ではなく、そのたびに発明し使用されるべきであるとも主張する。なるほど。

ひとつ気づいたことは、宇佐美先生は小見出しを使わない。大きく区切りたいときは、I, II, III……を使う。これは、「いきなり本題から始めよ」という主張に関係があるのかもしれない。「見出しなどに頼らずに、本文を読め」と。