KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

大学教員の倫理コード

 きのうの話の続き。

 大学往来(5/24)で反応していただいた。

昨日のちはる先生の日記を読んで、授業を聞いたことがきっかけとなって、場合によって法律に触れる「事件」を起こしてしまうということがありうるのか、また、どのように対応するべきか、ということを考えた。大学の例ではないのだが、米国のスクールカウンセラーの職業上のcode(倫理基準)の講演のなかで「生徒がなんらかの犯罪を示唆し」た場合には関係者(大学当局や示唆された人々)への「通報」義務が定められているということを聞いた。これを怠って実際に事件が起こってしまった場合にはスクールカウンセラーは重大な法的制裁を受ける可能性が高いということである。日本ではこのようなcodeは罰則をともなって法的に規定されていない(と思う)。

 これは大学教員にもあてはまる倫理コードではないだろうか。今はそんな気がしている。教員は学生を自立した大人として扱っている。しかし現実問題として、大人としては扱えない学生が増えている。「これは安易に作ると危ないですよ」といって「爆弾」の作り方を教えるようなことをしていいものか。考えれば考えるほど微妙で重大な問題のように思えてきた。

 たとえば。

 新潟での少女監禁事件を例に取り上げて、「なぜ少女には逃げるチャンスがあったのに逃げられなかったのか?」という問題を心理学的に考えるとき、「学習性無力感」という現象を説明のひとつとして持ち出してくるかもしれない。学習性無力感という現象を「こうしてはいけない」という警告として多くの受講生は受け取るだろう。また、多くの教員はその文脈で話をするはずだ。しかし、一部の学生は「こうすれば、相手を無力化し、思うがままに扱うことができる」と解釈するかもしれない。それはコントロールできない。とりわけさまざまな学生が集まっているクラスでは。

 もちろん、学習性無力感についての説明は、心理学関係の本を読めばたいてい書いてある。しかし、全体としてみれば、一生のうちで一冊も心理学書を読まないという人が大部分なのである。そうした状況にあって、心理学概論/入門の授業の中でこうした問題を取り扱うことの微妙さが今は気になって仕方がない。

 これが取り越し苦労であればいいのだが。