KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

よい講演は質疑応答で完結する

富山大学で、北陸三県教育工学研究大会が開かれた。地方の大会は研究の発表件数も少なくて、なにかもの寂しい感じがあるものだが、今回の大会は発表件数、参加人数ともに大盛況で、にぎやかなものだった。それもそのはず、研究発表ではマスター生はもちろん、学部四年生までもが卒論の発表をしていたし、シンポジウムや講演には一年生、二年生までが聴きにきていた(まあ、これには裏があって、授業の一環として講演を聴きにくること、という指示があったらしい)。

ただ、あまり発表件数が多すぎるのも考え物だ。というのは、限定された時間帯で件数を詰め込むためには、並行プログラムを組まざるを得ない。今回は、4本のプログラムが並行していたが、そうなると自然に聴衆が少なくなってしまう。極端な場合には、発表者だけしか会場にいない状態になってしまう。それはちょっともったいないことだ。

ともあれ、マスター生にとっても、四年生にとっても聴衆の前で発表するというのは、貴重な体験になったことだろうと思う。プレゼンテーションは習うより慣れろだ。プレゼンソフトを試したり、人目を引くようなOHPを作ってみたり、うまい人の発表をまねしてみたり、さんざん苦労して、よいプレゼンができるようになる。よいプレゼンとは何か、とたずねられたら、私は「自分が言いたいことをはずさないプレゼンである」と答えたい。最初のうちは、あれも言いたい、これも言いたい、と思ってしまい、前書きだけで終わってしまうような発表しかできないものだ。慣れてくると、核心部分だけをズバリと言えるようになってくる。しかし、それには長い時間をかけてそのことを考え、努力することが必要だ。そういうことの末に、やっと自分のテーマがなんなのかということがわかってきた証拠なのだ。

言いたいことをはずさないプレゼンは力強い。人を引きつける。記憶に残る。あれも言いたい、これも言いたい、と思える間はまだプレゼンが煮詰まっていない証拠だ。これだけが言いたい、という状態になるまで、枝葉をきっていく必要がある。これは大切なことなのだが、多くの人が意識的にも無意識的にもこれをしたがらないのは、明らかだ。というのは、枝葉を切っていくと、自分が言いたいことがなくなってしまったりするからなのだ。なにが言いたいの、と聞きたくなるような発表だけはいただけない。

さて、午後の講演は水越先生(関西大学)によるものであった。大勢の人が聴きに集まった。内容は、教育をよりよくしていくためには、システム、人的資源、カリキュラムの三側面から変えていかなくてはいけない、という話であった。実例を交えた話には説得力があったと思う。

しかし、ひとつ残念だったのは質疑応答の時間がなかったことだった。話を一般化したいのだが、どうも日本の講演には、質疑の時間がとられないことが多い。特に講演者が偉い人であればあるほどそうであるような気がする。なぜだろうか。司会者が「何か質問は」ときいたときに、誰も手を挙げなかったら、講演者に申し訳ないと思うからなのだろうか。あるいは、質問マニアのような人が手を挙げて、自分の宣伝のような話を長々としだして(しばしばとは言わないが、このような人を見ることがある。質問のマナーはただひとつ、短ければ短い程良いということだ)、せっかくのよい講演がぶちこわしになってしまうのを恐れるからなのだろうか。

しかし、いずれにしても司会者はこのような深い配慮をせずに、あらゆる講演に質疑の時間を設けるといいと思う。講演はその内容がすばらしいものであればあるほど、質疑があることによってますますよいものとして完結する。すばらしいが質疑のない話は、なにか寂しい。不全感が残る。自分のものにならない。ただよかったなという感じが残るだけで、すみやかに記憶から消え去っていく。

私がこのように質疑の時間にこだわるのは、質問をするとその話が忘れられなくなるからなのだ。だから、聞き手の立場で考えれば、聞いた話がすばらしくて、いつまでも心にとどめておきたいと思うならば、質問をすることだ。完全に話に同調してしまって質問が考えられないほど感動したときでも、あえて違う立場に立って質問を「作り出す」ことだ。確かに質問をするときはどきどきする。大勢の人が聴衆として集まっていれば、なおさらだ。誰でもどきどきするはずだ。逆に言えば、それほどの緊張感の中でするからこそ、質問は忘れられない体験となるのだ。だから大いにどきどきしていいのである。質問するときに頭の中が真っ白になって言葉がでなくなることが心配ならば、ノートの切れっぱしにメモしておいてそれを読めばいいのだ。

話す人の立場で考えてみよう。講演者にとっては、質疑が重要なフィードバックになる。聴衆みんなが、うんうんとよく聴いてくれるように見えたけれども、質問が的外れだったとしたら、それはやはりわかってもらえていなかったのだ。少なくともその質問者にはわかってもらえていなかったのだ。したがって、統計的推論をすれば少なくともあと何割かの聴衆には話がわかってもらえてなかったのだ、残念ながら。話す立場で考えれば、質問があるということはうれしいはずだ。的外れな質問でも、次回の講演への反省として、ひとまずはうれしことだ(しかも一見的外れな質問が、その後に偉大なアイデアを生むことがあるのであなどってはいけない)。だから、聴衆には、よい講演に対しては、いっしょうけんめいに拍手する熱意と同じ熱意でもって、よい質問を用意する仕事が与えられていると考えた方がいい。ここらへんのコンセンサスが講演者と聴衆の間で共有されるようになれば、司会者は安心して質疑の時間を設定できるのだろう。