KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

記録することの意味

 中谷彰宏がある本でこんなことを書いていた(立ち読みのため書名は忘れた)。「一つの仕事をしたら一冊の本が書ける」。そのためには日々の記録を徹底的にとっておくことだ、と彼は言っている。何かを記録することの意味を考えてみたい。

 テレビ番組の企画で、猿岩石がユーラシア横断ヒッチハイクをした。また、ドロンズ南北アメリカ大陸をヒッチハイクした。そのときの日記が何冊もの本になって出版されている。おそらく、猿岩石やドロンズは、それまで何かを書きためておくようなことはしたことがなかっただろうし、長期間日記をつけたこともなかったろう。それが普通の人だ。普通の人は何かを記録するということに執着を持たない。

 猿岩石やドロンズが毎日欠かさず日記を書くことができたのは、ひとつはそれが本になって出るということがわかっており、強力な動機づけになったことだ。もうひとつは、彼らが毎日体験していることが平凡な日常ではなく、めったにないことであり、初めての体験に満ちていたからだ。

 人は自分が珍しい体験や初めての体験をしたときに、それを誰かほかの人に話したり、または書いて読んでもらいたい衝動に襲われる。それは子供のときからそうであり、まるで遺伝子に組み込まれた本能的な行動のようだ。大げさにいえば、新奇な体験を他人に伝えて、人間集団の共通の知識とすることによって、生き延びに有利にしたいという戦略なのかもしれない。

 何か変わったこと、事件、イベントなどがあると日記は書きやすい。たとえば、初めての国への外国旅行は、毎日何かしら小事件が起こったり、新たな発見があったりするので、日記が続くのである。このときばかりは人は記録魔になることができる。

 反対に、平凡な毎日を送っていて日記を書き続けるのはなかなか難しい。しかし、Web上で日記を公開しているもののなかには、読むに値する面白い日記を毎日書いている人がいる。そうした人は何が違うのだろうか。それは平凡な日常を新しい切り口で見るということだ。平凡な日記を、読ませる日記に仕立て上げる人は、一見平凡なできごとの中から、面白い何かを取り上げ、焦点化する能力を獲得している。

 日常の中から面白い何かを焦点化するという能力はジャーナリストや科学者に必要な能力である。観察→焦点化→記録→観察→焦点化→記録→・・・というサイクルは埋もれたもの、あるいは隠されたものの中から、何かをあばき、明らかにするという仕事に特有なプロセスである。そこで中心となる作業は「記録する」ということに他ならない。まず記録するということから仕事が始まる。

 とすれば、去年一年生の基礎ゼミで試した「問題日誌」はやはりいいところを突いていたといえるだろう。しかし、もう少し方法論を深めることは必要だ。ただ日記を書くというのではなく、自分なりの問題意識や焦点を持って日報(ジャーナル)を書いていくということだ。日報の書き方の方法論をもっと具体化したり、体系化したりする必要がある。