KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

平林久和・赤尾晃一『ゲームの大学』

ゲームの大学 (じゅげむBOOKS)

ゲームの大学 (じゅげむBOOKS)

企業活動、ジャーナリズム、アカデミズム(教育)は産業が成熟していくために必要な「三本の矢」だと思います。一朝一夕には不可能だと思いますが、ゲーム産業にもジャーナリズムが確立し、アカデミズムが興隆するための努力を怠るべきではないでしょう。

 この本を読んで赤尾さんのいる大学(静岡大学情報学部)を志望する学生も多いと聞く。読んで納得である。正直言って、ゲーム産業のことや流通形態のことは私にはあまり興味はない。途中でカイヨワの遊びの分類や、チクセントミハイのフロー理論といった私の好きなトピックがはさまれているとしても、それはこの本のごく一部だ。それでもかなり厚めの一冊を読ませてしまうこの本のパワーはどこから来ているのか。

 それはテレビゲームという単一のトピックを産業論、企業戦略、消費者心理、遊びの理論などの多角的な側面から切り込んでいる著者二人の姿勢なのだと思う。心理学でテレビゲームを専門に扱っている研究者はいる(たとえばロフタス&ロフタス「ビデオゲームの心理学」1985、コンパニオン出版(絶版?))。しかし彼らは軸足を心理学の方に置いている。つまり心理学から見たテレビゲームである。一方、この本は軸足をゲームに置いている。テレビゲームを座標の原点に据えたときに、これに対してどのようなアプローチが可能かということを探っている。そしてその原動力は最初の引用からもうかがわれるように、ゲームそのものを著者たちが深く愛しているということから来ている。

 この本を読んで私が考えたことは、その内容もさることながら、むしろ研究のアプローチの仕方である。単一のトピック(問題や社会現象)を設定して、それに対して多角的に切り込んでいく。今の時代はこの方法こそが問題を解決する唯一の方法のような気がする。細分化された学問の主流にいるだけでは解決できないほど現代の問題は複雑に絡み合っている(たとえば、脳死原発、クローンなど)。だから「単一の課題・多様なアプローチ」しか有効になり得ないような気がする。社会学では「恥知らずの折衷主義」で一歩進んでいるようだが、これも「恥知らず」といわねばならないところに学問の主流中心主義の根強さを感じる。

 というわけで、今課題になっているのは多様なアプローチをもつ研究者たちをどのようにしてネットワークするかということなのだろうと思う。