KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

読者を意識せずに書け

  • 読者を意識して書け

 というのは作文の第一教程である。作文の第一教程が「読者の意識」であるのは、学校時代に私たちが読者を意識せずに書かされてきたことの裏返しである。手紙やメールは相手のことを意識して書くのが当然であるから、書ける。しかし、作文になると筆が止まってしまうのは、読者のイメージが作りにくいからだ。

 その典型が読書感想文である。あれはいったい誰を読者として想定しているのか。先生か。先生しかいない。しかし、先生に自分の読んだ本を報告していったいどうしようというのか。書くことの必然性がないのである。感想文を書くのが苦しいので、読んでいる本までもが嫌いになってくる。読書感想文は、子供を作文嫌いにさせ、さらに本嫌いにもさせる根元である(少し頭の回る先生なら、「著者にお手紙を書こう」というような設定をして効果を上げる)。

 読者を意識することが重要なのは、そのことによって伝えようとする内容、語り口、書かなくてよいこと(前提知識)などがはっきりするからである。それによって、最も少ない文字数で、伝えたいことを最も力強く訴えることができる。

 「読者を意識して書け」というものの、それは「読者にどう思われるかということに過敏になれ」ということではない。ある文章を読んでそれについて読者がどう思うか、どう感じるかということは読者の自由裁量である。それについて作者があれこれ指図することはできない。

 だから、ある読者が「あなたの文章は嫌いだ」といったとしても、あなたは落ち込むことはない。10人の読者がいたとしたら、そのうち1人は必ずあなたの文章を嫌う。あなたがどんな文章を書いても嫌う。たとえ、あなたがその読者の気に入るようにスタイルや内容を変えたとしても「そういう迎合したところが嫌い」といって嫌う。だからほおっておけばいいのである。その代わり10人のうち、2人は必ずあなたの文章が好きである。あなたがどんなに気弱なことを書いても「その優しさが好き」といい、またあなたがどんなに傲慢なことを書いても「その物怖じしないところが好き」という。残りの7人は、あなたの書く内容や風評によって、好きになったり嫌いになったりどっちでもなかったりする。

 ものを書き、それを読んでもらうということは、静かな水面に石を投げ入れることであり、どう書いても波風を立てることなのである。波風が立たなければ書く意味はない。しかも、どんなにうまく書いたとしても10人のうち1人は必ずあなたの書いたものが嫌いなのである。だから嫌いだという人のことを気にする必要はない。

 ましてや日記である。読者にどう思われるかということに過敏になることなく、書きたいことを自分のスタイルで書けばいい。もし読者を気にするならば、その反応を気にするのではなく、自分の文章をいかにわかりやすく、本意を誤解なく伝えるかということにだけ気を使えばいいのだ。日記の第一の読者は自分自身である。わかりやすく、考えや気持ちがストレートに書かれた文章は未来の自分への贈り物になる。