KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

批判メールと痛いメール

——結婚式はどうだった?

うん、良かったよ。超能力デモンストレーションもうまくいった。しかし、超能力デモの問題は、それを見て信じてしまう人が必ず一定の割合いるということだな。終わった後、私に「ユリ・ゲラーみたいでしたね〜」と話しかけてきた人がいた。あれはユリ・ゲラーがインチキだと思って言っていたのだろうか。それともユリ・ゲラーが超能力者だと思って言ったのか。まあ、おおっぴらにタネあかしをした方がいいのかもしれないけれど、タネあかしもスマートにやらないと無粋になるし。

——ははは、君のへたくそな演技でも信じる人がいるなんて、人間て単純な生き物だな。

人間は目と耳と思い込みにだまされる生き物なのさ。

——ところで、それは何?

これはかまぼこで作った鯛だ。富山では結婚式の引き出物に必ず鯛のかまぼこが出てくる。

——大きいね。おかずにしたら一週間分くらいありそうだ。

食べきれないから、切って近所にお裾分けする。

——「奥さんのぼやき」の5/23の日記には匿名の批判メールをけっこう受信しているということが書かれている。少し引用すると:

匿メールで「あなたの日記は常々面白くないと思っています」とか「今日の照井さんの日記は、数行の書き捨てな文章なのに、どうしてあんなに得票が入るの」とか「私信が楽しいのは自分だけ。読まされる身にもなってみろ」とゆーのは何度か貰ったことがある。ちなみに「つまんねーよ」系は何度も。

「じぶん更新日記」の5/22分では「読まずに廃棄」という原則が示されているね。「BOWDO」の5/23分でもそう。しかし、わざわざ「つまんねーよ」と書いてくる人っていったいどんな人なんだろうね。そちらの方に興味があるなあ。

——批判メールに対するあなたの意見は?

僕の場合、あまり、というか全然批判メールをもらったことがない。もともと反響メールが少ないからね。反響メールが来るともう喜んで返事を書いてしまうくらい。でも、もし批判メールをもらったとしたら、読まずに捨てることはできないだろうね。その点では、照井さんが「どうしても読んでしまう訳ですよ」といっている気持ちがよく分かる。

——読まなければそれでまた気持ち悪いからね。

そう。それでね、ちょっと視点を変えてみたいんだけれど。読んで「痛い」批判メールと「痛くない」批判メールがあると思うのね。もらった批判に対して、きっちりおつりを付けて余裕で反論できるという場合があるわけでしょう。そのときは実際に反論メールを書いたり、Webで反論しなくてもいいわけ。もちろん書いてもいいわけだが、時間がもったいなければ書かなくていい。「なんだ、まだこんな未熟な考えを持っている人がいるんだ」とつぶやきながらメールをごみ箱に捨てることができる。

——それが「痛くない」批判メールだね。

ところが、反対に「痛い」批判メールというのが、あるんだね。これは、心臓にキリでも突き立てられたように痛い。で、痛いメールというのは、それが論理的に正しいかそうでないかということに関係がない。非論理的なものでも痛い場合がある。

——どうして? 相手が論理的に間違っていれば簡単に逆襲できるじゃないか。

それは簡単にできるさ。でもね、反駁できるということと、言われた自分の心が痛いということは別の事実だ。痛みを引きずりながら反論するというようなことがある。いや、痛さを感じているからこそ反論してしまうと言った方がいいかな。さっき言ったように、痛くなければ架空の反論を頭の中でするだけでごみ箱に捨てることができるのだからね。

——痛いメールには何か意味がある?

よくわからないけどね。批判メールがイチャモンであろうが言いがかりであろうが、もしそれで痛いところがあればそれは自分にとって何か意味があるかもしれない。よくいうでしょ、「あっ、痛いところ突かれたな」。これは自分の弱いところを意識するのに役立つ。

——何を痛いと感じるかが、あなたの心のありようを示している、というわけか。

なぜ自分がこの言葉を痛いと感じたかがわかれば、痛くなくなることもできるわけだ。すぐに反論を始める前に、その痛みについてちょっと考えてみる。それで自分をよく知ることができるかもしれない。痛くなくなろうとすれば、それは自分を変えることにつながる。