KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

北陸心理学会/高校生の「努力」

 北陸心理学会の大会があったので、金沢大学に出かける。毎年、福井大、金沢大、富山大でもちまわりで大会が開かれている。発表は、実験系が7件、臨床系が8件。全15件の発表のうち、8件を金沢大が占めていた。福井は1、富山はゼロ。来年は富山が会場校なので、何か発表しようかと思う。

 久しぶりにばりばりの実験心理学の発表を聞いて刺激を受ける。学部4年生の発表もあって、それがかなりしっかりしている(大学院進学志望の人なのだろう)ので感心する。さすが金沢大。聴衆は20人程度の小さな会だから、先生、学生入り乱れてバトルになる。それが面白い。私は「質問して欲しい」と言われて、出てきたのだが、その必要もないほど。でも何も質問しないのもなんなのでちょこっとだけ(←珍しい)。これは珍しいことだが、うわての人がいたということ。

 研究発表の中からひとつだけ紹介。「じぶん更新日記」の中で「努力を求める入試がなされた方がいい」という話が出ている。さて、いったい今の高校生は「努力」というものをどのようにとらえているのだろうか、ということを検討した研究があった(荒木友希子(金沢大学大学院)「改訂学習性無力感理論における内在性次元と統制不可能性の関係」)。

 まあ、普通の成人であれば「努力する」ということは自分自身の要因に関係していることであって、それは自分自身でコントロールできると考えているはずだ。つまり、努力するかしないかは、自分自身で決めることができると思っている。しかし、こう考えていない高校生がかなりの割合でいるというのが研究で明らかになった。

 つまり、努力できるかできないかは、自分ではコントロールできないと考えている高校生が(半数以下ではあるが)かなりの割合でいるということだ。たとえば、あるテストで成績が悪かったとする。それは自分の努力が足りなかったからだと考える。しかし、その努力は自分以外の何か(他人や環境)によって決められているのだから、自分の責任ではないのである。と、こう考えるのである。努力というのは自分の決心と実行以外の何ものでもないのではないか、と考える人にとっては不思議な論理だが、そういう高校生が現実にいるということ。

 となると、先生が「努力するかしないかは君たち自身にかかっているのだ」などという訓辞をたれたとしても、自分の努力が外的にコントロールされていると考える高校生には、意味が通じないことになる。彼らにとっては「努力」は外的な条件でできたりできなかったりすることだからだ。「先生、何いってんの?」である。

 もしかすると、教師や親が「今の子供が変わった」といって、あわてふためいている原因は、端的には「努力」などの単語が通じなくなったということに一因があるのではないか。つまり同じ単語を使っていてもとらえかたが変わってきているということだ。こうしたことばには大げさに言えばその人の世界観が凝縮されているので、強力な手がかりになる。

 こういう研究アプローチをとれば、「子供が変わった」という現象も単なるセンセーショナリズムではなく、学問になるような気がするのだが。