なんだか日付の古い日記をアップしているなと責めないで。今回も出張先の神戸から日記を更新しようと、子バイオを持ってきたのです。しかし、宿泊した神戸グリーンホテルは安くて(6500円朝食込み)いいんだけれど、部屋から外線電話がかけられないのでありました。そんなわけで、せっせとアップしています。1日に2日分の日記をアップすればすぐに追いつくね。
それから、kogo@edu.toyama-u.ac.jpのアドレスは、事情があって、8/30まで使えません。具体的には、ここに送るとリターンされてくるようです。ですので、この期間だけ、メールはプロバイダのアドレスkogo@kd5.so-net.ne.jpまで送っていただけるとありがたいです。
ああ、そうだ。きのうの神戸オフは夢のように楽しかったです。参加のみなさん、どうもありがとうございました。とりわけ、お世話していただいたシュウさん、本当にありがとう。また神戸に来たいです。
さて、教育心理学会の1日目、2日目の様子をメモしておこう。
1日目午後のシンポジウムは「大学入試の教育心理学」を聞いた。ひとつ用語を覚えておく。Washbackという単語。入試などのテストが逆に教授・学習活動にどのように影響してくるかということ。たとえば、「受験地獄」のように、厳しい受験競争があることによって、高校生活が地獄のようになってしまうのは、washbackの(悪い)効果ということになる。まあこれは通俗的解釈であって、当然washbackの良い効果ということも考えられるわけだ。日常的な授業でもテストがあるから勉強するということがある。これもwashback。この効果をどのようにしてうまく活用するかということが問題なのだと。
しかし、今再び入試をネタにして、高校生を勉強させようというのは副作用が大きすぎるだろうと村上隆さんはいう。つまり入試のwashbackを、なお利用し続けるという考え方には反対するという立場。それにしても、有識者と呼ばれる人たちが、入試や評価について無知のまま、マスコミで暴論を吐いている。彼らにはデータに基づく実証性が欠けている。しっかりした研究機関が実証研究を進めていくことが必要だと。
池田央さんは、戦後教育はさまざまな点でアメリカ化がなされたけれども、その中で日本に根付かなかったものとして次のことを挙げた:
- 教育の科学的研究(データの公開)
- カリキュラム研究(教授法についてはあるけれども)
- 教育政策研究(policy making)
- 職業指導とカウンセリング(キャリアプランニング)
- 教育評価と研究法のトレーニング
特に、池田さんの先生であるクロンバックの言葉を引用していた:
教育データというのは多ければ多いほどいい。たとえ相互に矛盾したデータがあったとしても、それによってなおさら背後にあるものが良く見えてくるものだ。
内田伸子さんと森敏昭さんの対談で、「教育心理学の論文をどう書くか」。そのポイント:
- ゆるぎないデータを手に入れること
- 確かな方法論(論文を読むときに「問題」だけを読んで、自分で実験デザインを予想してみるという練習)
- 既成の理論にチャレンジする。常識を越えるために新しい視点を入れる。
- 重要なテーマを選ぶ
- 教育的なインプリケーションがあること
城戸賞(『教育心理学研究』誌の論文賞)をどうしたら取れるか、というキャッチで話を進めていたが、資格のない私には(35歳までが対象)そんなことはどうでもいいや(←すねすねモード)。というか、こういう年齢制限ってなんとなくいやだなあ。遅咲きの研究者のことを考えてみよ。これからは、50歳から研究を始めるという人だってたくさん出てくるはず。
梶田叡一さんの「教育現実と心理学者」。振り返ってみると自分は一貫性のあるいい仕事をしてきたなあ、という自慢話とも言える。しかし、自慢話をしても許されるような年齢というのがあるのだろう。話の内容はいいことを言っている。次のようなこと。
研究のベクトルには二つある。ひとつは「厳密さ、客観性」のベクトルである「われわれ」の視点。つまり、自分に一致できない人たちに自分の理論や考えを分かってもらうための手だてである。もうひとつは「認識の深さ」のベクトルである「われ」の視点。これがなければ研究に深みを与えることができない。そして、研究とはこのふたつのベクトルを合成したところにあるべきだ。「われ」の視点と「われわれ」の視点を加算したもの。
人間を研究するということには、多義性は逃れることができない。不確定なものが必ず残ってくるということ。しかし、「何でもあり」ということではない。そうではなく、
- 私はこう解釈した
- それにはこういうデータがある
- そのデータについてこういう論理展開をした結果である
ということを明確にすることが大切なのだ。
(教育)現場に行っても論文は書けない。しかし、40代、50代になったときに、面白い本が書けるはず。人間が生き生きと動いている「場」に身を浸すことが面白い本を書くための条件になる、と。しかし、現場に行って論文が書けるようにすることが今は求められているような気がするんだが。つまり、そうした論文のスタイルの開発、旧スタイルに拘泥しないレフェリー、冒険を評価する風土、などが求められていると思う。
私のポスター発表には8人ほど聞きに来てくれた。ありがたい。大学の授業法方について関心を持っている人がいるということだ。勇気づけられる。