KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

チューリングテストの世界

 日本心理学会が発行している広報誌「心理学ワールド」(No.8)に坂村健のエッセイが載っていた。「インターネット心理学」というタイトル。

ネットワークの掲示板は「表面化しているものがすべて」。しかもテキストとして正規化されている極度に制限されたコミュニケーションメディア〓〓いわば、チューリングテストの世界である。そして、すべての議論の流れが記録に取られている。セッション後にメールで参加メンバーにインタビューなどすれば、完全に研究室の椅子に座ったまま、多数の被験者を対象とした研究も可能である。「コミュニケーションチャンネルを限定した場合の集団のダイナミクスについての研究」という論文が書かれたら、ぜひ拝読したいと考えている。

 あ、なるほど。これは「チューリングテストの世界」だったのか。「ネットワークでは、向こうでイヌがタイプしていてもわからない」ということばを聞いたことがある(イヌじゃなくてネコだったかな?)。これもチューリングテストの世界ということだ。オフ会などで相手と会わないかぎり、チューリングテストの世界は保たれる。

 そうしてみると、オフ会でネットワークの向こう側の作者と直に会ったりすることは、チューリングテストの種明かしをしているようなものだな。「はい、このとおり人間でござい。ロボットやイヌではないよ」ということの確認。しかし、よく考えたら、そういう確認の取れる相手はごくごくわずかなのだ。例外といってもいい。

 もちろん、オフ会の報告などを読めば、特定の作者がロボットではないことがわかるわけだが、しかし、疑ってかかれば、ロボット同士の掛け合いかもしれない。つまりロボット同士が架空のオフ会をやったとして、それぞれがオフの報告をネットワーク上に提示することはやろうと思えば簡単だ。この場合は複数人相手のチューリングテストといえよう。実際にそういうものがあるかどうかは知らない。

 「文は人なり」というけれども、私の場合はネットワーク上の文章を読むときに、作者の人格や性格を必要以上に想定しない。むしろ、なるべくロボットが書いたと思うようにしていたりする。そうすると何が言いたいのかということだけが、ストレートに読みとれるような気がするから。まあ、それでもひしひしと伝わってきてしまうのが、Web日記なのであるが。