KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

できレース社会を超えて

 深夜のウィンブルドン・テニスを見ている。

 このすがすがしさはなんだろう。フルセットにもつれこみ、何度もフットフォルトを取られて、すっかり嫌気がさしたノーマンは、ボールガールに「代わりに打ってよ」とラケットを差し出す。それで彼女は本当に打っちゃうんだなあ。イギリス人のユーモア。真剣勝負の上に上等なユーモアが成り立つ。スポーツの魅力は分析の価値がある。「競争社会を越えて」。しかし、スポーツは弱肉強食の競争とはちょっと違うというところがポイント。ちょっとの違いが決定的な違いになる。

 おそらく強者対強者の戦いはやる価値がある(そして弱者対弱者の試合も)。どちらが勝つか負けるか予想がつかない試合、それこそがやる価値のある試合だ。やる前から勝負が見えている試合を見に行く人はいない。勝っても負けても、それは時の運だったと納得できるような試合こそがいい試合である。そういう試合の時、勝負の結果はとるにたらないものとなる。結果ではなくて、プロセスこそが大切であったし、プロセスこそが楽しみであったのだと感じられる。それが意味のある勝負なのだろう。

 ゴルフでいうハンディキャップとは試合を面白くするための仕掛けだ(私はゴルフをやらないが)。強者と弱者が混在する中で、意味のある勝負を成立させるためには、ハンディキャップが必要なのだ。「意味のある勝負」というのは、結果としての勝負にこだわらずに、自然にプロセスの楽しみに目がいってしまうことである。いや、もちろん、試合中は相手に勝つためにやる。しかし、ハンディキャップというシステムを導入したために、勝負そのものには意味がなくなる。そして、勝負の過程、プロセスに目がいくというシナリオである。

 「努力が報われる」って何だろう。

 せっかく努力しても、負けてしまったらその努力が無に帰すわけだから、「競争」はだめなのだ、という。それは祝福すべき努力に対して罰で報いるシステムだという。報いられるのはごく少数の勝者だけだから。そう、確かに、初めから勝負のついている競争はダメだ。それはやるに値しない。勝負のわからない競争だけがやるに値する。競争をするならば、それはギャンブルでなくてはならない。「競争社会を超えて」ではなく「できレース社会を超えて」であろう。

 人生の勝負は、その人がどれほど幸せであったかで決める。幸せを感じる量は、その人がどんなにお金持ちでも、豪邸に住んでいようが、地位が高かろうが、周りの人が尊敬しようが、それらとはあまり関係がない。たとえば財産がたくさんあり、収入も高額であったとしても、人間はすぐそれに慣れてしまうからだ。金持ちの人は、どんなにたくさん収入があっても、満足しないし幸福も感じない。慣れてしまっているからだ。

 「慣れ」こそは神様が作った天然のハンディキャップ・メカニズムだ。慣れがあるからこそ、幸せを感じる感度はその慣れにしたがって調節される。私たちは天然のハンディキャップをもらって、どんな人であれ、対等に人生の「幸せ」のレースに参加することができる。そして勝負はまさにギャンブルとなり、そのプロセスだけが楽しみとして残るのだ。