KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

神様の導入

 昨日は「……について書く」ことと「……を書く」ことは違う、てなことを書いた。言い換えればこういうことになるだろう。「……について書く」という場合は、あくまでもそれは私個人の見方である、ということを宣言している。だから、あまり突っ込まないでね、これは私の考え方なんだから、という逃げ道が用意してある。

 それに対して「……を書く」という場合は、逃げ道がない。それは書き手が神様の立場で書かなければならないものだ。もちろん書く人は一人の人間なんだけれども、個人的立場ではなく、仮想的な神様の立場で書かなくてはならない。いやもちろん書くのは弱い人間なんだけど、それをあえて無視して退路を断つというのだろうか。神様が見たとしたらどうだろうかということを考えて書く。だから書きにくい。「僕の感想」ならば書きやすいんだけれど。

 たとえば、「中田英寿について書く」といえば、それは「中田英寿についての個人的思い」を書けばいい。しかし、「中田英寿を書く」といえば、なんとなく個人的思いだけではすまされないような感じがする。いくらかは、神様から見たもの、あるいは客観的記述を期待されているような感じになる。もちろん個人が書く限り客観的記述には限界があるのだけれどもね。それをわかった上で、何か個人を超えたところで書かなきゃいけないような気がするのだ。第三者の目の導入というか。

 というわけで「……について書く」ということは、その気になれば割と簡単にできるんだけど、「……そのものを書く」というのはやはり難しい。両者の間には、何か越えがたい一線があるような気がするわけだ。作家の苦しみというのはそんなところにあるのではないかな。「そのものを書く」というのは常にゼロからの出発であるのに対して、「について書く」というのは、すでに10までできあがったところから、ああだこうだ言えば書けるわけだからね。もちろん「について書く」という場合でも、ゼロから出発すれば、それは大変なものになるし、価値も高くなる。

 ところでWeb日記はどうなのか、というと、これは1日の体験や出来事、それに関連して考えたこと、という素材があって、それ「について」書けばいいわけだ。だから比較的書きやすい種類の文章なのではないかと思う。

 それでも、読んで面白いWeb日記と、そうではないWeb日記があるのはなぜかというと、1日の体験そのもので面白いことをしてみようとか、面白い考え方をしてみよう、と実行している人の書いたものは面白いわけだ。静かな1日を過ごした人は、静かな日記を書くだろう。義憤に満ちた1日を過ごした人は、義憤に満ちた日記を書くのだろう。いずれにしても、その1日「について」書くのだ。