KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

G3ノート値下げ/自分の全作品CD/6d

今回は珍しくPowerBook G3を持ってきている。講演でスライドを提示するためだ(もちろんパワーポイントではなくクラリスワークスのスライドショー)。そうでなければこの重いパソコンは持ち運ぶ気にはならない。もともと私の実家には、アメリカ旅行のときに大活躍したPowerBook Duo 2300cが置いてある。あまりにも大活躍したので、今では液晶に筋がはいり、キーボードは効かなくなっている。それでも外付けのキーボードをつけて、現役で頑張っている。

当たり前のことだが、Duoに比べるとG3ノートは使い心地がいい。速いし、画面が広い。これに慣れてしまうと、出張のときはG3ノートを持っていくことにしようか、という気持ちにもなってくる。台湾の学会で、分厚い2分冊になった予稿集を参加者に渡すのに、手提げ鞄にいれて、鞄ごと配布していたのだが、その鞄がノートパソコンにぴったりの仕様になっていた。鞄にG3ノートを入れて、肩からかければそれほど重さを感じることなく運べることがわかった。

そんなことを考えながら、MacWIREを読んでいたら、G3ノートが大幅値下げされるそうだ。400MHzのG3ノートが21.8万円。以前は30万円近くしていたのではないだろうか。しかも私が今使っているものよりも速い(私のは333MHz)。こうなるとiBookと値段的に近くなる。そうなると画面1024x768のG3ノートの方が、800x600のiBookよりもいいかもしれない。やはり画面は広ければ広い方がいい。まあ、ウィンドウズ機のスペックと値段に比較すれば、これくらいでちょうどくらいの値段になったのだろう。それなのに、なんとなくお買い得の感じがしてしまう。現に今、買いたくなっている(AirMacをはじめから内蔵してもらえるともっといいのだが)。

鷲田小彌太『パソコンで考える技術』(PHP文庫, 2000, 514円)を読む。1996年の作品の改訂・文庫化。ワープロからパソコンに至る過程の古い記述が、かえって「書くこと」について何が本質的だったのかということを浮かび上がらせているようだ。

表現されないものは、混沌としかよびえないもの、「いまだなにものにもなっていないもの」なのである。この前提に立って、私は、なにごとかを考えるために、「表現されたもの」を読み、「表現する」=書くのがいいのだ、という。

思い切って「自分」とは、「表現された総体」である、「外面性」にほかならない、という観点に立ってみたらどうだろうか。

私は、共同執筆の論文や本には、パソコンが最適だと考えている。こんなことも可能になる。まず、全体のコンテ(レジメ)をA氏が打つ。B, C, Dがそれぞれ得意なパートを受け持つ。自分のパートでも、他の人に協力を求めたいのなら、その旨を打ち込み、いつも、仕事の進み具合に合わせながら、全員同じ「文書」をフロッピーで共有して、執筆する。ただ員数合わせをしたような報告や書物とは異なった、本格的な共同執筆の作品が、迅速にできあがる。

私がいまいちばん欲しいのは、ほかでもない、私自身の「全作品」が入ったCD、あるいは、ファイルである。自分で作るのも、まったく可能である。問題は、作っても意味があるかだ。

私も時々、これまでに書いたWeb日記、論文、雑誌記事、本の原稿、デジカメの画像、教材、テキストなどすべてのものが収められたCDがあると便利だなあ、と思うことがあった。いまとなっては、それはあまり難しいことではなくなった。問題は、これまでに作ってきたファイルをうまく整理分類することかもしれない。まあ、検索機能を使えば、ごちゃごちゃのままCDに焼いてしまっても大丈夫かもしれない。

ひょっとすると1日あれば十分にできてしまう仕事かもしれない。2000年の最後を記念して、ひとつ焼いてみようか。

シュワルツネッガーの「6d」を観てきた。

近未来SFで、クローンの話だ。映像自体は、なんとなくいろんなところから持ってきたような、「こんなシーン、どこかでみたなあ」という感じがした。しかし、映画全体は楽しめた。ちょっと泣かせる。ただ、記憶をあんなふうに移し替えるのは、ちょっと無理があるような気がして、ちょっとひっかかったけれども。