KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

仲間同士で審査すること

きのう書いた研究費の傾斜配分のことに関連して、審査について書いてみる。

他人の仕事を評価することというのは、なかなかしんどい仕事ではないかと思う。とりわけ、研究費の配分のようなことは、審査者である自分自身もまたその配分を受けるわけで、さらにやりにくいのではないだろうか。たとえば、「自分の配分が多くなるように評価したのではないか」というように痛くもない腹を探られるようなことをいわれたりして。かといって、外部に審査者を依頼するというようなこともむずかしい。それは、コストの面と審査の能力がある人をさがすのが難しいということの両面でむずかしい。

だからやはり、内部の人間に審査を頼むしかないのである。これは、学会誌の投稿論文を査読するのに、同じ領域の研究者に頼むしかないというのと、構造的には同じだ。

そこで考えるのだが、研究費配分の審査者には、初めから最高額の配分を受けることに決めておけばいいのではないだろうか。最高額でなければ、最高額の8割としてもいい。いずれにしても、審査者には審査を依頼する前から一定額を保証しておくのだ。そうすれば、自分に都合のいいように審査したといわれることもない。なぜなら、自分の審査方法によって自分の配分額が変化することがないのだから。また、審査の仕事は実質的にボランティアである。これは割に合わない。報酬の代わりに一定の配分を保証しておくというのであれば、頼む方も頼まれる方も、納得できるだろう。

科研費の審査員にはなったことがないのだが、あの仕事は報酬があるのだろうか。他人の研究計画書を読んで、評価するというのは大変な仕事だろう。その審査員が出した計画書には、その内容を問わず、科研費を付けるというルールにしたらいいのではないだろうか。これで公平さがずいぶん保たれるのではないか。そもそも審査員を依頼されるほどの人であれば、計画が通る可能性は高いはずであるし。

問題は投稿論文の査読だ。これも無報酬で行われることになっているけれども、大変な仕事だ。自分の所属する学問領域全体の発展になれば、というボランティア精神で動いているのだ。この場合は、「審査者が投稿した論文は無条件で通す」ということには、なりにくいなぁ。しかし、他人が書いた論文の査読をたくさんやると、自分の論文を書くのが遅くなるという弊害は、何人もの人から聞いたことがある。なんとかして審査者へのフィードバックを考えなくていけないのではないかと思う。