KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

今は目の前にいる人の話を聞きたいんだ

早稲田に移ってきて、驚いたことのひとつは、ゼミにおけるゼミ生の話し合いが活発であったことだ。富山では、私自身がゼミをリードしなくてはならなかったし、そうしないときの無言の時間がつらかった。また、私がある学生を指導しているときに、他の学生がまったくそれに関心を示さずに、他人事のように振る舞っていたことに内心腹を立てたりもした。「それなら、ゼミなんか開かなくても、個別に指導するだけでいいじゃないか! 何のためにゼミを開くのか」とね。

でも、ここでは違う。私が口を挟まなくても、ゼミ生同士で活発な議論が進む。しかし、それにもかかわらず、私はしゃべろうとした。それは、教員としての本能的なものであったかもしれないし、13年間の習慣であったかもしれない。なにせ、こちらがリードしなくては何も動かないし、卒論も進まないということが続いたので。

そんな私ではあったが、今日はゼミ生の話をおとなしく聞くことができたのさ。今までなら、何か言いたいときにも穏やかに待っていられた。なぜか?

これはJalshaのワークで感じたことに関係がある。そのワークでは、5人から10人くらいのグループに分かれて話し合いをするのだが、その話し合いが本当に面白かった。みんなが今話題になっていることに集中して、さまざまな予測や提案をしながら、少しずつ何かが明らかになっていく。そのプロセスが手に取るようにわかって、そのことに熱中してしまったんだ。

そんな中では、講師による絶妙な補足説明や、ヒントや仲介ですら、じゃま(ごめん)に感じてしまう。いつもなら講師の言葉は一言も聞き漏らさまいとするのに、話し合いが盛り上がっているときに限っては、「この瞬間は、じゃましないでほしい」とすら感じたのだ。もちろんそれぞれのグループはそれぞれのペースで盛り上がっているので、全員一致のタイミングで講師が仲介を入れることは不可能だ。それはわかっている。

講師ではなく、グループの中で話しているという立場になってわかったことが、それだ。「そうか、話を中断される方はこんなふうに感じているんだな」。「コメントをしてくれることはありがたい。でも、今は目の前にいる人の話を聞きたいんだ」と思う時間が確かにある。そういうことだ。

そんなわけで、今日のゼミではゆったりとしていられた。私が口を挟むべきタイミングがきっとある。それを待っていよう。急ぐ必要はない。何よりも彼ら自身がひとつひとつ納得しながら進んでいくことだけが、成果なのだから。