KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

自主シンポ:カリキュラム開発を支援する

村井淳志さん(金沢大学)の発表:とりやまとしこ(1980)「いのちにふれる」(太郎次郎社)ニワトリを殺して食べる授業実践を受けた生徒が30歳になった時点で、聞き取り調査でその授業の影響力を検証した。

最近の事件:秋田県の小学校で、鶏を育てて食べる授業を総合学習の枠組みで企画した。子供たちと話し合って計画し、保護者にも丁寧な説明をした上での授業計画であった。しかし、解体の前日になって中止してほしいとのファクスが県の教育委員会にはいり、中止となった。

さて、とりやま実践を受けた子どもを追跡調査をしたが、きわめて肯定的だった。

私は質問した「ひとりでも(町沢静夫がいう)PTSDになった人がいるとすればどうか。もしそういう人がいるとすれば、追跡調査も拒否すると思うのだが」

それに対する、村井さんの回答:証明責任に対しては、かなり不公平である。PTSDの事例はひとつあれば十分なのに対して、PTSDが起こらないと証明するのは実際上不可能だ。ニワトリのトチク場面を見て、鶏肉が食べられなくなったという事例はいくつか報告されているが、それは、残虐な場面を、予告なく、また、鶏肉の流通過程の知識があった場合に限られている。とすれば、その3点の裏を返せば、PTSDの起こる確率の最小の授業ができるし、現実に実践例が積み上がってきている。(ただし追跡調査を拒否した人がいたかどうかは聞きそびれた)

村井さん、筋金入りだ。次の実例を見よ。

河口湖なんたら」という、当時だれもが賞賛した実践の中で大活躍した子どもが30歳になったときにインタビューした。その人は「私はその時社会科が嫌いだった」という発言をした。それを、実践した先生に伝えたら、その先生自身もびっくりしたらしい。

そう、そういうことがあるのだ(私はそれについては私自身の体験から確信している)。それを教師は認めなくてはならない。

そうした上で、先日取り上げた大村はまについてもう一度考えてみる。

おそらくはま先生の授業がどんなに考え抜かれたものであっても、3割の生徒にとってはマッチしないものであったろう。それは、この本(『教えることの復権』)の中では完全に抜け落ちている。対談者自身がはま流の授業にマッチした人であったので、それは見えようがないのだ。それでもなお、はま流の授業の価値が下がるわけではない。それは「教えずに考えさせる」授業では、たぶん7割がドロップアウトするだろう(つまりできのよい3割の生徒だけが恩恵を受ける)ことを想像すればすぐにわかる。

あくまでもたとえばの話で、運動会に出てこない、教室が汚い、というようなことがあっても、それは大村はま実践の価値とは別物だ。