KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

水谷雅彦『情報の倫理学』

現代社会の倫理を考える〈15〉情報の倫理学 (現代社会の倫理を考える (15))

現代社会の倫理を考える〈15〉情報の倫理学 (現代社会の倫理を考える (15))

そもそも著作権とは、著作者に自己の著作物に対する排他的権利を与えて文化的創造を奨励し(いわゆるインセンティヴ)、それによって文化の発展を図ろうとするものである。したがって、第一の目的は『文化の発展』にあり、だからこそ著作権法には「著作物の正当な利用」(合州国法におけるフェアユース)についての記述がある。要は、著作者の権利の保護と著作物の有効利用の間の兼ね合いの問題なのだ。

シンガーの意図は、死を定義することにあるのではなく、どの段階になれば人為的な生命の維持をストップすることが許されるかを示すことなのである。したがって、シンガーにとっては脳死状態の人間はすでに死んでいるのだという必要すらないことになる。つまり、かくかくしかじかの状態に陥った生命は、その人にとっても周囲の人や社会にとっても無価値であり、それを維持し続けることは無駄であるがゆえに、他の人の利益になるならその生命を終わらせてもよい、という考えなのである。

2ちゃんねる」という、匿名性を保証した巨大複合掲示板システムが、インターネットにおける無責任な情報発信の典型例とされることがある。//当初、このようななんでもありの掲示板を放置しておいたら、ゆくゆくは目も当てられない状態になると警告した人もいた。しかし現実には、それなりの自生的秩序とでもいうべきものが発生してきており、日々ひどい状態になって目も当てられないほどの惨状を呈しているわけでもない。

ここまで「情報化社会」という語にはっきりとした定義を与えないままに使用してきた。今ここでは、それを「誰もが情報弱者の位置に転落することがありえ、またそのことに対する不安感を日常的に持ち続けている社会」として「社会病理学的」に定義したくなる誘惑にかられてしまう。

「情報倫理」という言葉そのものはあちらこちらでさかんに使用されるようになっており、多くの大学で授業科目になったり教科書が執筆されたりもしている。しかし、そのほとんどは「情報化社会で被害者にも加害者にもならないために」という標語に象徴されるような「コンピュータ使用における『べからず集』」とでも呼べるものである。そこには、すでに存在しているものとしての「情報化社会」を上手に泳ぐための手引きはあっても、それを将来にわたってどのようなものとしてデザインしていくべきかという問題意識は希薄であるような気がする。