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木村治美『エッセイを書きたいあなたに』

エッセイを書きたいあなたに (文春文庫)

エッセイを書きたいあなたに (文春文庫)

 だいたい金曜の夜は仕事時間の最後の一時間(6時から7時くらい)を利用して、仕事場の整理をする。本や雑誌はどんどん増えて行き、すぐに所定の場所に格納するわけではなく、たいていは積み上げ状態になるので、どうしても整理する時間が必要だ。研究室の3方向の壁を埋める本棚もそろそろ満杯になってきた。一定の容量のところに増え続ける資料を納めるには工夫が必要だ。そうやって本や雑誌を並べ替えたりしていると、思いがけなく面白い本を見つけることがある。買ってはあったがまだ読んでいない本である(つん読というやつだ)。そういう本がけっこうある。木村治美のこの文庫本はそんな一冊だった。

 この本は、エッセイをどう書いたらいいかということを、エッセイを書き始めて15年(以上)の著者が書いたものだ。エッセイとは何か? 小説はストーリーの面白さが命、意見文は論理や意見のユニークさが命、詩は感性豊かな言葉遣いが命、とすれば、エッセイはこれらが絡み合ったものであり、逆に言えば、誰にでも書けるものである、という。エッセイは独断と偏見でいい。またノンフィクションでは不可欠な資料がなくても書ける。しかし、読者に受け入れられるためには、書き手が自分の独断と偏見を十分意識しており、その上で「私」を打ち出していくことである。

 エッセイとは何かということをさらに明らかにするためには、「非エッセイ的」な文章を例に挙げるとわかりやすい。著者が次に挙げる例は痛快だ。

今学校現場には荒れ狂っている子どももいる……が、まちがいなく言えることは、一人一人がかけがいのない命の存在であり、かつ、ひたすらに幸せを求めつづけているということである。/私たち教師は、この一人一人の命を限りなく尊びいとおしむことをすべての教育活動の原点とし……

 どうだろうか? このような文章を「無意味な文章」という。「私」がいないのである。イデオロギーで固まった人が書く「確信犯」の文章である。自己陶酔するばかりで、自分を見つめ、掘り下げる姿勢のないものはエッセイではない。したがってこれは最も非エッセイ的な文章といえよう。(しかし、公式にはよく流通している文章である。僕らがすべきことはまずこういう文章に対して「無意味なことを言うな!」と野次ることだ)

エッセイと日記の類似性

 この本を読みながら感じたのは、ここで言う「エッセイ」と「日記」とがよく似ているということだ。特に、描く対象が自分自身であるという点。独断と偏見の存在である自分を書くことが、エッセイの本質であり、それは同時に日記の本質(reflectionということになる)でもあるからだ。違う点は、エッセイでは書き手が自分の独断を意識していることが必要だが、日記では必ずしも必要ないことだ(しかし、文章を書く時点でたいていは自然に意識される)。

 そう思いながら読み進めていくと、次のような記述に出会う。

じつは日記もよくつけました。日記を十年書き続けるとひとかどの者になれる、といわれるそうですが、それが本当だったら大いにうれしいと思う。私は青春時代を日記をつけるために生きたような気がします。よくもあれだけ、来る日も来る日も書きつづけたものです。

 ああ、やっぱり木村治美さんも日記書きだったのだ。

 エッセイは誰にでも書ける。ということは、逆にエッセイでプロの書き手になるのは難しいということを意味する。著者はそのことを隠さない。商品としてのエッセイはその内容よりも誰がそれを書いたかが重要なのである。だから今エッセイストとして活躍している人は、隠れた努力もあろうが、たまたま出版社に縁があった人であり、あるいはエッセイ以外の分野で特別な活躍や体験をした人であり、なろうとしてなったケースは少ない。

 しかし、それでいいのではないかと著者は言う。エッセイでプロになろうとするのはやめたらどうか。それよりも、書くことで自分と家族のために何かが残り、仲間内で評価されることで満足するべきではないかと。それが最もエッセイの本質に近いのではないか。

 こういう点でも、私はエッセイと日記との類似性を感じてしまう。日記もまた、自分と家族と限られた数の仲間のために残された、ささやかな贈り物として存在するだけで十分なのではないだろうか。