日記コミュニケーション―自己を綴る、他者に語る (現代のエスプリ no. 391)
- 作者: 川浦康至
- 出版社/メーカー: 至文堂
- 発売日: 2000/02
- メディア: ムック
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現代のエスプリNo.391「日記コミュニケーション」(至文堂、2000、1381円)の全体に目を通した。
中野翠「おそるべし、日記文学」では、たとえば『猫の蚤とり日記』というのが紹介されていて、飼い猫から取った蚤の数を日々記録し、しかもその蚤をセロテープで貼り付けてあるという(Web日記ならデジカメで撮影するというところだろう)。日記の世界がむかしからなんでもありの世界だったということがよくわかる。『古川ロッパ昭和日記』で「日記のための人生といふものがあっても可笑しくはあるまい」と書かれているように、のめり込むと際限のない世界である。
ドナルド・キーン「日本人の日記」には次のくだり:
そもそも、なぜわざわざ日記をつけるか、という問題がある。日記を研究している学者によると、日記は普通二つの範疇に分けられるという――すなわち、日記をつける当人の個人的利用にその目的が限られているもの、そして読者を予想しながら書かれるもの、この二つである。しかし実際問題として、ほとんどすべての本物の日記(勿論、備忘録的なものは省かなければならない)は、いつかは他人がそれを読むであろうという、少なくとも無意識の希望、あるいは期待をこめて書かれている。
たとえ、誰かが読むだろうということを明確に意識していないとしても、いつか誰かの目に触れるかもしれないということを日記書きは考えているというのだ。とすれば個人的な日記と公開を前提にしたWeb日記とは、同じ「日記連続体」の端と端とに位置するのかもしれない。
杉本卓「日記リテラシー」では、日記書きにおける読者の役割について強調している。
このような公表を前提とした日記は、ある意味ではエッセイ・随筆との境界がもはや明確ではなくなるし、ノンフィクション、さらにはフィクションとなってくる場合もあるだろう。読み手にどのように読まれるか、読み手にどのように伝わるか、ということを意識するとによって、「創作」すなわち、「作られたもの」という要素が強くなってくる。
書き手はそれがどう読まれるかということについて一定の解釈方略を持っている「解釈共同体」に宛てて書いている。しかも、
書き手がテクストを生成する場面にすでに読者の存在が少なからず影響を与え、読み手と書き手の相互作用の中でテクストが生成されるのである。
なるほど、そう考えると日記猿人というのもひとつの「解釈共同体」かもしれない。私は「日記猿人という共同体の実体はない」といっているけれども、Web日記を書いているときには、そうした「解釈共同体」を仮想して書いているということは確かにある。実体はないけれども、心理的スキーマとして働いているということだろうか。
山下清美「WEB日記は、日記であって日記でない」ではWeb日記を書いている人を対象にして行ったアンケートデータ(377票)の詳細な検討から、
WEB日記を書き続ける理由が、自己表現よりもまずはコミュニケーションにある
ということを明らかにしている。これは、自分のことがWeb日記でうまく表現できていると満足しても、必ずしもWeb日記を書き続けることにはならないということであり、また、Web日記を書くことが読者との関係の面でメリットがあれば、自分がよく理解されていると満足し、それがWeb日記を書き続ける要因となるということだ。Web日記の本質が読者との関係にあるということを(直観的にそうだと思う人が多いだろうが)それを実証データで示したということがポイントだ。
全体として、赤尾さんの言うとおり「Web日記」研究者には必読文献のひとつだ。