KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

大学教員の任期制と評価問題

任期制法案が国会に提出されたそうだ。この法案を簡単にいえば、任期制を取り入れるかどうかは各大学にまかせるけれど、取り入れる場合は任期を決めて採用してもいいよ、ということだ。それじゃ、各大学で任期制を取り入れないことに決めればそれでいいのじゃないかとも思うが、そこはうまく考えたもので、任期制を取り入れない場合は予算をつけてあげないよというように、任期制と予算を抱き合わせにするという戦略で、この制度を広めていこうというわけだ。

この法律に対するぼくの考えは微妙だ。まず法律の精神は理解できる。これまで大学は大学の自治という名の下に、あまりにも管理されずに来た。ここ数年、自己点検評価というものが文部省の先導で行われてきたが、やはり自分のことの評価は甘いのである。しかも、一冊報告書を出せばそれで終わりである。報告書を読めば、あの人は5年間で一本の紀要論文しか書いていないとか、この人はたくさん論文を書いているな、ということはわかるが、それでおしまいである。たくさん論文を書けば給料があがるということもない。また論文をまったく書かないからといってそれで首になることもない。

したがって、任期がきたのを機会にその教員の仕事を評価し、よければ続けさせ、だめならば首にするというのは非常にわかりやすい仕組みである。しかし、同じような効果はなにも任期制を採用しなくても実現できる。たとえば、三年に一回、その教員の仕事を評価して、よければ給料を増やしたり、研究費の額を上げたり、研究室のスペースを増やしたり、サバティカルをとって外国で研究できるようにする。反対に仕事の評価が悪ければ、給料を下げ、研究費を減らし、研究室のスペースを減らし、サバティカルの機会は先送りにする。特に首にしなくても、こうすることによって十分教員の仕事を活気づかせる効果はあると思う。

任期制あるいは報酬制のいずれをとるにしても問題は評価である。その評価をどの機関が行うかという問題だ。残念ながら今回の任期制法案は、この評価の方法についてなにも特定していない。評価機関や評価方法については、任期制を採用した大学に一任される。とすれば、一番可能性の高いのは、人事教授会がその役割を担うということになる。しかし、自分で自分の評価を行うこと、あるいは自分の近くにいる人の評価を行うことは、簡単にバイアスがかかり、適切な評価が行われないことはやってみる前に日常経験からすでに明らかである。つまり大学の中で内々に評価をするということは避けたほうが賢明だ。

もし任期制を取り入れるならば、その判断の元になる評価は外部の第三者の機関にゆだねなければならない。その評価機関は、まず評価の方法と基準を十分吟味して決め、公開することが最初の仕事になる。教育・研究・マネジメントの3領域においてどのような観点で評価を行うのか。そのたたき台をまず作り、インターネットなどで公開していくのがいいと思う。

各大学では、それをみて各評価観点にどのような重みを付けるのかを話し合えばいい。これによって、その大学が研究中心大学としてやっていくのか、教育中心大学としてやっていくのか、独自の方向性がでてくるはずだ。今の地方国立大学に見られるように横並びで個性のないままにやっていくことはもはやできない。たとえば教育中心大学としてやっていくことを選んだなら、規模の大きな学習研究センターを作るなどの企画が、その大学自体の生き延びのために実現される可能性がある。また大学で働く教員も、自分は研究中心でやっていくのか、教育中心でやっていくのかを自ら決断して進んでいくことが要求される。そうした個性(あるいは適性)を発揮できる環境になってはじめて、任期制がもくろんでいる人材の交流が現実化するのではないだろうか。今のまま任期制を取り入れたとしたら、良い人材は大都市圏の限られた大学に集められ、地方の大学は没落していくのではないだろうか。