KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

書く量一定の法則

 前号で紹介した「しごとにっき」を書き始めたら、とたんにchiharuNewsの方がご無沙汰になってしまった。しかし、これは別段驚くにはあたらない。十分予想できたことだ。

 こんな経験がある。インターネットがこんなに自由に使えるようになる前には、ニフティサーブが私のホームグラウンドであった。私はそこで「ちはるのホームパーティ」なるものを開いて、元気なときには毎日、日々の出来事や思ったことなどを書いて、ホームパーティのメンバー十数名とやりとりをしていたのだった。しかし、インターネット上のホームページを書くようになるとニフティの方に書く量はだんだんと減っていった。ホームパーティの方は今でもメーリングリストとなって生き残っているのではあるが、ごくたまに通信文がやりとりされるだけであり、昔とは比較にならないほど淋しい量である。

 こうした経験から次の仮説を提出したい。

「人が書く量はほぼ一定であり、大きく変わらない」

 これを「書く量一定の法則」と名付ける。

 これは法則というよりも経験則と呼んだ方がいいかもしれない。この経験則は次のようにさまざまなケースに当てはまるのである。

「原稿は忙しい人に頼め」

 これは原稿を頼むならば、暇そうな人よりも忙しい人に頼むべきだということである。つまり忙しい人はそれだけ多くの原稿をかかえているにもかかわらず、それらを締め切りまでに書いてしまうのである。逆に暇そうに見える人は、暇そうにもかかわらずなかなか書いてくれない。たいていは締め切りを大きくオーバーする。たまに、忙しい人なのにコンスタントに締め切りを破る人がいるが、その人は締め切りを破ることが習慣になっているだけであるので、依頼人は締め切りを本当の締め切りの一ヶ月前に設定しておけばいいだけのことである。

「電子会議やネットニュース、メーリングリストではたくさん書く上位3〜5人で、全体の発言量の8割を占める」

 これはさまざまな場所で証明されている。だから、会議室やメーリングリストなどで、「みんなの意見を聞きたいので、普段発言しない人も発言してください」というようなお節介がときどき見受けられるが、これは土台無理な相談であることを知るべきだ。普段はたくさん書く人なのにある場所ではあまり書かなかったり、ある時期から急に書かなくなったりすることがある。なんのことはない、これは別の場所でたくさん書いているのである。個人内では書く量は一定なのだ。

 たくさん書く人はいつでもたくさん書き、少ししか書かない人はいつでも少ししか書かない。いつも少ししか書かない人が突然たくさん書くようには決してならないのである。つまり書く量と速度は、その人の習慣に強力に支配されており急には変わらない。

 だから、投稿論文を2年に1本しか書かない人は、常に2年に1本なのだ。これを就職のために無理して1年に3本書いたりすると、その後6年間論文なしになったりする(私のことだ)。つけは必ずまわる。無理はいけない。コンスタントに書く方がいいのだ。

 論文の話が出たのでついでに言えば、大学院を作るためにそのスタッフの業績のかさを上げようとして、学内紀要を年一回だったところを年二回に発行回数を増やしたところで、果たしていままで書かなかった人が書くようになっただろうか。否である。書かない人は、紀要の発行回数を増やしても、けつをひっぱたいても書かないのである。それが彼の習慣だからだ。大学の人間はなんでこんな自明のことがわからないのであろうか。

 もし今話題の任期制を導入して、書かなければクビだよ、と警告すれば書くかもしれないが、これは明らかに非人道的な仕打ちである。書かないのは彼の人格の一部なのだ。書かないことは採用する前からその業績を見ればわかっていたはずではないか。それを任期制だ、業績評価だといって方針転換するのはかわいそうである。いったん採用したからには評価は彼のペースで決めるべきだ。つまりこれまで十年で一本論文を書いていたならば、次の十年で一本書けば十分と評価すべきだ。それが嫌ならはじめからすでにたくさん書いている人を採ることだ。すでにたくさん書いている人は、これからもたくさん書く確率が非常に高い。

書く量はいつ決まるか?

 人が書く量は一定であるとすれば、そのペースはどの年齢で決まってくるものなのであろうか。おそらく小学校時代から大学時代までの期間にどれくらい書いたかで決まってくるのだろう。これは小説家としてやっている人にアンケートでもしてみたいところだが、ある日突然狐でもついたようにたくさん書き始めたという人はほとんどいないだろう。小説家になるまでに、内容はどんなものであれ、書くことは嫌いでなかったはずだ。

 ホームページ作りが盛んな時代になってきたが、そこでたくさん書いている人は、すでに何らかの形で書くことが好きであった確率が高いはずだ。また、更新頻度もその人個人のペースが必ず守られているはずだ。データをとってみればわかる。もちろんホームページを初めて作った人には物珍しさ効果(novelty effect)が働くから、初めはたくさん書く。しかし、2-3週間すれば、更新頻度や書く量ははその人固有のペースに落ち着く。

 書く量は一定である。それは、その人が死ぬほど忙しかろうが、死ぬほど暇だろうが、老人だろうが若者だろうが、男だろうが女だろうが、その人個人の書くペースに支配される。つまり書くという行為は、しかたなくやっている行為---飯を食ったり、寝たり、セックスをしたり---が大部分である人生において、自由意志においてなされるごく希な行為だからだ。そこではその人の個性が全面的にかつ安定して現れる。それはむしろ書かれた内容にではなく、書く量とペースに端的に、わかりやすい形で現れる。