KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

良い学生を採るには

 6月にはいるともう就職活動も後半戦になるようだ。ゼロ免新課程(もう新ではないか)の悩みは学生の就職時期にあらわになる。先生の側は、できるだけたくさんの学生を情報産業におくりだしたい。それだけの教育を3年間余り、がっちりやってきたと確信している。しかし、学生の方は自分が情報関連の会社でやっていけるのかどうか自信がない。または、もともとそういう会社には行きたくないと気持ちを決めている。先生と学生の両者の思惑のギャップは大きい。この原因を考えてみたい。

入り口の問題

 まず入り口の問題がある。情報と名前は付いているがしょせんは教育学部(注1)である。本当に情報に関する学問を勉強したいのであれば、工学部の情報系に進むはずだ(注2)。またもう少しひねったところであれば、社会学経営学でも先端的な情報に関する学問をやっている。なぜ教育学部の非教員養成課程(つまりゼロ免)を選んだか?ここで、各科目そこそこにオールマイティのいい子ちゃん的学生像が浮かんでくる。安全な学部(教育学部のことだ)の中では、ちょっとコンピュータをいじれそうでなんとなくかっこいいと思ってこのコースを選んで来たのかもしれない。

 (注1)「しょせんは教育学部」とは卑下していっているのではない。逆に教育学部であることのプライドを持ちたいのである。しかし、現状は教員養成というすでに時代遅れの観念の呪縛のためにこの学部は自由を失っているのだ。すぐそこに、生涯を通じて、全員が学び、全員が教えあう、という時代が来ているのに、なんら変わろうとしない教育学部に、絶滅しつつある恐竜を眺めるような切ない気持ちがあるのだ。

 (注2)大学のどの学部やコースを受験生が選ぶかについて僕はまだ幻想を抱いているのかもしれない。大月隆寛はこう書いている。「ごく普通の受験生にとって、経済学と法律学の違い、政治学と経営学の違いはまず理解できない。「○○学部」という看板は偏差値という序列の中のインデックスにすぎないのであり、受験に限れば、それは引くべき宝クジの通し番号以上の奥行きを持つことはない」(『若気の至り』、洋泉社、1997)

 しかしそうはとんやがおろさない。コンピュータの世界(というかそれを支えるデジタルのプログラム原理)は奥が深いのである。一度は深くはまりこんで、ディスプレイをにらんでいたらいつのまにか朝になっていた、という体験を繰り返さなくては「分かった!」という境地には到達しないのだ。しかし、いい子ちゃんはハマるということをしないのである。ハマらないからいい子ちゃんなのだ。

 もちろん「ハマるくらいなら最初から工学部にいっとるわ」という反論が成り立つ。その通り。僕が言いたいのは、少なくとも一度だけはハマるという体験をしてってほしいということだ。一生ハマり続けるならその人はエンジニアとしてやっていくのがよい。しかし僕がイメージしているのはハードウエアのエンジニアではない。自動車にたとえれば、エンジンを開発する人間ではなく、人間のすわる座席、メータ類のデザイン、自動車の外観のデザイン、道のデザイン、道を含んだ街のデザインまで含むものだ。しかし、それは自動車が好きという感覚がなくてはできない仕事だ。

 結局コンピュータが好き、という感覚が原点にあって欲しいのだ。コンピュータが好きという人は、なんで好きかというと、一度ハマってしまった体験があるからなのだ。コンピュータは道具だよ、なんてことを授業ではしゃべっていたりするが、本当のことを言えば、僕にとっては道具以上のものだ(特にマックはね)。

ホームページを見れば分かる

 第二の問題は、四年間の効果があったのかということだ。四年間で得た知識や技能なんて本当はどうでもいい。タイプが速くならなければ単位を出さないぞと脅かして学生のタイピングスキルを向上させてあげているのもほんの「サービス」に過ぎない。四年間でつかんで欲しいのは、コンピュータが好きになることだ。コンピュータとネットワークを使うことが楽しいと思うようになってしまうことなのだ。これさえあればいい。それで十分だ。

 そうなっているか? 残念ながら、そうなっていない。「コンピュータが好きか?」なんていうアンケートを今更したわけではないが、それはたとえばホームページを見れば分かるのだ。恐ろしいほどよく分かってしまう。コンピュータを使うのが楽しい人は、たくさんホームページを書く。逆に、いやいややっているひとや、命令されたから仕方なくやっている人は、それなりのホームページしか書かない。しかも、書く必要がなくなればページの更新はすぐに途絶える。

 ホームページを書かないのはその人が書く内容を持っていないからだ、と言う人がいるが、それは違う。コンピュータが好きで、それで書きたいと思えば、ネタはどこからでも探し出して来ることができる。自分で一言も書かなくても、便利なリンク集を提供しているのが一例だ。

 だから、ホームページを開こうと思えばいつでも開ける環境が整っている状況で、学生の作ったホームページを一通り見てみれば、どれくらいの割合でコンピュータが好きになった学生がいるかが把握できる。その結果はお寒い限りである。ホームページを書くのが楽しくて書いている学生は、情報系の就職に決まることが多いのである。経験からもこれはかなりの確率で当たる。残念ながらそういう学生は少ないのであるが。

 会社の採用担当者にこれから言おうと思う。学生のホームページを見るといいですよ。その学生がどれくらいコンピュータが好きかどうかがたちまち分かります。学生の書いた内容を見るのではなく、書いた分量と更新した回数(もちろん更新回数が多ければ分量も多くなる)を見るのです。これは絶対に当たります。一回限りでエイヤッとばかりに作ったホームページで、その後の更新もなく、きれいごとばかり書いてあるホームページの学生は、面接するまでもなく落とすべきですね。

好きになること・再び

 コンピュータが好きになるとはどういうことなのだろう? ホームページを作るのは最初は面倒くさい(特に「作れ」を命令された場合はね)。しかし、作りたいと思う動機が強ければ、何度もやっているうちに面倒くさくなくなるし、また、その過程で面倒でなくなる方法を自分で編み出していく。そのうちにハマっていくのだ。一度ハマると、不思議なことに、どんなに面倒に見えることでも、面倒でなくやりとげてしまう方法を編み出していく(これを熟達するという)。こうした過程でコンピュータがどんどん好きになっていくのだ。「好きになる」というのでなければ、「コンピュータなしでは自分の表現が考えられない」という状態になる。

 コンピュータなしでは自分の表現が考えられない、あるいはコンピュータがあれば無限の表現が考えられる、という人こそが、僕が、おこがましくも、育てたいと思っている人材だ。今のところそれはあまりうまくいっていない。しかし、これからそうなっていきそうかどうかを、モニターするためにも学生のホームページを見ていきたい。学生のホームページはそれを占うための格好のデータなのだ。