KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

補助金は良い方法か

 先日、科研費の説明会に行って来た。その中で講師が言った言葉が耳に残っている。

「私どもはできるだけ多くの先生方にいい研究をしていただきたく援助をしたいのですが、なにぶん予算が決まっていますもので。」

 もっともだ。しかも泣かせる話ではないか。できるだけ多くの先生にいい研究をしていただきたい、などという文句。

 しかし、である。これは冷静になって考えると大問題がある。特に補助金という制度と競争的な申請制度には決定的な問題点がある。それを説明したい。

 まず第一に補助金という制度である。これは講師が話の中であまりしつこく言うので気がついたのだが、これも小規模ながら、ゼネコンやらばらまきで問題となっている「補助金」なのである。講師が強調していたのは、問題的補助金と違うのは金額の桁が違うことと、特定の人ではなく全国たくさんの人にいきわたるということである。しかしこれは説得的ではない。極小規模の補助金に変わりはない。 

 補助金の問題点は次に集約できる。

 1. 予算があると全部使ってしまうものである。残すことはない。したがって無駄遣いが必ず起こる。

 2. 科研費が当たらなくても、いずれにしても、その研究をするのである。もし科研費が当たらなければその研究をやらないとしたら、それは一見してろくな研究ではないことが想像がつく。つまりそれは補助金のための開発と同じ構図の「補助金のための研究」である。そこでは科研費は適切な動機づけになっていない。

 3. 申請段階で決まるとしたら、計画が実行されたあとに検証がおこなわれなければならない。しかし検査が行われるのはごくまれである。一方、計画通りに研究は進まないものであるし、それこそが研究の本質であるといえる。

 次に、競争的申請制度の問題である。これは一般的に競争というシステムそのものに致命的な欠点があることが明らかにされており(『競争社会をこえて』)、具体的には次のような問題がある。

 1. 競争申請で通り良くするために、目先のテーマ、あるいは流行のテーマに縛られてしまうこと。したがって、地味で着実すぎる研究は不利になる。これは大規模に研究の方向性をゆがめてしまうことになる。

 2. もし申請を受かりやすくするために、申請書だけを粉飾するとすれば、研究者の良心を裏切ることになる。研究者の第一要件は「正直」であることだ。

 3. 過半数の落選した研究とその申請者は、自分の研究を否定されたようなネガティブな感情を持つ。研究の評価は、科研の当落ではなく、研究論文そのものの評価でなくてはならない。

 書いてみて気がついたが、これは今の競争的入試制度の欠陥と同じである。目先の試験に受かるために受験技術を磨き、もし試験に落ちればそのネガティブな感情は長く心に残る。こうした相似形が社会のいたるところで見られる社会はあまり生きていて楽しい社会とは言えない。学生も競争試験で苦しみ、教員も競争申請で苦しむ。因果応報というやつか。

 それでは、科研費という制度をなくして、うまく研究の生産性をあげる方法はあるのだろうか。ある。それは出来高払いである。研究をして何らかの報告書や論文にまとめられたら、それを申請して金を受け取ればいいのである。もし研究をしなかったら、これは仕事をしなかったということなのだから金がもらえなくても、納得がいく。

 何百万、何千万のプロジェクトは予算がなくてはたちゆかないだろうが、百万以下のものはとりあえずやれるはずだ。だからこの規模の研究は出来高払いにすればいいのである。研究者はこれを元手にしてさらに次の研究を計画すればいい。

 こんな単純な制度を採用するだけで研究の生産性は驚くほど上がるだろう。自分の努力したことと報酬がきちんと対応しているだけで人間は喜んで働くのである。行動理論は強力であり、核心を突いている。

 では文部省は科研費に代わって、よりすぐれている出来高払い制度を採用するだろうか。それはあるまい。官僚は手綱を握っていたいのだ。補助金という手綱を握り、研究者を馬に見立てて競争させる。それで馬を育てた、強くしたと思いこむ。この構図を打ち壊すためには、馬は競争を降りなければならない。