KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

言語表現授業への反応

 前期の授業「言語表現」の最終課題は「書くことについて」であった。「UFO」や「捕鯨」や「常識に反すること」などといったテーマを押しつけられた受講生(しかし彼らは一方で自由テーマをひどく嫌っていたりする)は、このテーマを得るに至って、これまで鬱積していたものを吐き出すかのように、自分の気持ちを作文に反映させた。

 その典型的なものは次のようなものだ。

  • 添削されて何回も書き直しをしたのですっかり作文が嫌いになった。
  • 作文に一体A,B,Cというランクを付けることができるものだろうか。
  • 少しでも説得力を作文に備えようと、自分がそう思っていない方の意見の立場を取って書くことがあった。そんな自分が嫌だ。

 徹底的な添削を受けて、けっこうまいった受講生が幾人かいたようだ。提出された作文はそのまま合格(AかB)の評価がつくことはない。最低でも2回は赤を入れられる。平均的には3回の添削を受けてやっと合格になるケースが大部分だ。しかもその3回の添削にしても一人の人ではなく、3人が順番に見ていくので、1回目では気がつかなかった部分に、2回目では赤が入るということが起こる。

 こうした徹底的な添削の経験がなかったせいだろうか、それで作文が嫌いになったとなかばやけくそぎみにこちらを責めるひとがゼロではなかった。まあ、作文が嫌いになったぞ、この授業のせいだぞ、と作文に書いてくるのだから問題はないだろう。本当に嫌いになったのなら、まずそんなことを作文にすることもなく、去って行くはずだ。そういう人はこれから一生文章を書かずに過ごす人生を選べばよいのである。そういう人生も悪くない。これは本心である。

 自分の書いた文章に赤を入れられることがうれしいと思う人はいない。文章はいわば自分の人格の代理物であるから、それに手が入るということは自分の人格を傷つけられることである(注)。このことは、投稿した論文にさんざんケチを付けられ、不愉快な思いをするという体験をしている私自身がよーく知っている。しかしそうした状況の下で、ここをそう変えてしまっては私の意図が曲げられてしまう、という交渉能力と調整能力が養われるのだ。

(注)この弊害を避ける方法は、浦崎さんのアイデアによって解決はできそうだ。それは、作文の最終判定人と添削人を別の人とするという方法だ。最終判定に受かることを目標に作文者と添削人が協力するいう図式を取れば、作文者は添削という助言をスムーズに受け入れることができるのではないかという予測が立つ。

 作文にランク付けができるのか、という疑問だが、これはできる。ランク付けに当たっては作文の内容にかかわらず、つまり、捕鯨に反対だろうが賛成だろうがそれにかかわらず、その作文がどれだけの説得力を持っているかを測り、評価にしたのである。そしてこれは十分可能な行為である。

 書きやすいからと自分の信じている立場を取らずに、書きやすい立場で書いてしまったと告白する人もいた。それでいいのである。それどころか、こうも考えられないか。むしろ、書きやすい立場で書いたものが正しいのである、と。

 信じていることの根拠を明確に言葉にできないということはどういうことなのだろうか。宗教心というのならわかるが、今回テーマにしたのはそういうこととは無縁のことだ。うまく説明できないけどそうだと信じていること(常識といってもいい)をもっと疑ってみることが必要なのだ。根拠なしに信じていることが多すぎる。書くということは、考えるよりもまず先に、疑うことなのだ。