KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

研究と教育とはまったく違う

 後期の授業に向けて教材づくりを始めた。科目は、統計学認知科学である。作りはじめてみて、重大なことに気がついた。

 研究教育と一言で言うが、研究と教育とはまったく違う別のことがらである。

 このことに気がついたのは、この前まで研究者モードで学会で発表する予定の研究をまとめていたのだが、それが終わって教育者モードで教材を作ろうとしたときに、何か調子がでないことを感じたからだ。つまり研究モードと教育モードとはまったく違うふたつのモードであるということだ。これを器用にスイッチするということは難しい仕事なのだ。

 研究と教育がまったく違うことであることを説明していこう。

 まず、研究とはまず第一に自分の興味を考えることだ。つまり自分がおもしろがるということが研究が成立する第一要件だ。一方、教育ではまず第一に相手の興味を考えることだ。つまり相手をおもしろがらせるということが教育の第一要件だ。なかには、自分がまずおもしろがっている研究のことを学生に話して、学生もそれをおもしろがって聞いてくれるというケースもあるかもしれないが、それはまれなことであるし、自分の話をおもしろく語るというアレンジを苦心して工夫しているのである。

 第二の違いは、どこにこだわるかということだ。研究では細部にこだわるのである。誰を被験者にして、どんな装置を使って、どんな状況で、どんな手続きをしてデータを取ったのか、そういうことの細部にこだわるのである。そうした細かいところに研究の本質が隠されていることがよくあるからだ。神は細部に宿る。研究の本質は細かい手続きや刺激の選択に宿る。研究論文がつまらなく、読みにくいのはそうした細部にこだわるからなのだ。一方、教育ではそうした細部にこだわることなく、本質だけを取り出し、枝葉を捨て去らなくてはならない。細部をぎっちり書いていくと発想がつまってくるからだ。社会心理学の実験のダイジェストがおもしろいのは本質的なところだけを単純化して紹介しているからだ。

 つまり、研究の本質部分と教育の本質部分とは同じ名前でありながら、まったく違うのである。研究の本質とは細部へのこだわることの苦しみであり、教育の本質とは細部を捨て去ることの苦しみなのだ。

 研究と教育とがまったく違うことだということから、一般的に、教育実践の研究が難しいという予測が導き出される。つまり、教育者としては、学習者を中心とした活動を構成しなくてはならない。しかし、研究者としては、自分の興味を中心とした活動をしたい。このふたつの気持ちが一人の人間を引き裂くことになる。