KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

校正の大切さ

 教育工学会誌のショートレター論文の校正刷りが来た。二校で、これが最終になる。感心したのは、前回の校正で指摘されていなかった、こちら側のタイプミスを発見してくれていたことである。フロッピーによる入稿なので、このミスはこちら側が原稿を作った時点からのミスである。それも文章をかなり注意深く読まなければ見つからないであろうミスであったので、その指摘には大変感心し、また原稿を大切にチェックしてもらったということをありがたく思った。

 大小さまざまな学会があり、それぞれが学会誌を刊行している。学会誌にプレステージやランク付けがあるとしたら、それを誌面に残る誤植の数でだいたいは当てることができるかもしれない。いかに論文の出来不出来と誤植の多少とは独立した出来事であるということを理屈として言われたとしても、読んでいる論文の中にたとえ一カ所であろうとも誤植を見つけてしまったら、その内容の信頼性は失われてしまうのである。

 こういう文章の中で誌名をぼかすのは私の趣味ではないのではっきり言うが、私が最近入会した学会の論文誌「教育メディア研究」は残念ながら校正が甘い。3巻2号の中の、柳原由美子の英語ビデオ教材についての論文では、要約の中の「先行オーガナイザー」という術語が「オガナイザー」と誤植されている。また、図中の「統制群」が「統計群」と誤植されている。普通の誤植ならまだしも、こうした専門用語の誤植は致命的である。それだけで読者は、読む気が半減するか、内容の信頼性について疑いを持ちはじめるはずだ。

 これは論文を投稿するときにも、卒論を提出するときにも、また、短いレポートを出すときにも共通して言えることだが、誤字脱字をすればそれは即命取りである。ただの一カ所でも誤字脱字があれば、もう読み手は内容の信頼性について疑いはじめる。つまり、「あまり読み返していないな。やっつけ仕事ではないのか」というふうに思い始める。そうしたらもう注意は文章の内容にではなく、まだ誤記があるのではないかと探す方向に向いてしまうのだ。これは、自分自身が何度も読み手の立場になっているというの経験からも確実に言えることだ。

 というわけで、もちろん原著者がまちがえをしなければ、それに越したことはないのであるが、学会誌の編集人として、腕利きの人を抱えているということはそれだけで雑誌の価値が高まるものだということを改めて感じたのである。彼らは、その仕事の性質から、あまり目立つことはないが、雑誌を支える力強い裏方である。