KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

実現できる抱負を考える

 去年のchiharuNews新年号を読んでいたら、抱負が書いてあった。次の三つだった。本を書く、論文を書く、教材を作る。とすれば、これらはすべてかなえたことになる。しかし、こんなんでいいのか。普通、抱負といえば、簡単には実現できないものを言うのではないか。ヘビースモーカーがタバコをやめるとか、めちゃくちゃ太っている人が三十キロ体重を減らすとか、忙しすぎる人が子どもと遊ぶ時間を作るとか。

 たいてい、抱負というのはちょっとやそっとでは実現できないような壮大なものを掲げるのだ(タバコをやめるのが壮大かどうかはおいておく)。だが、少し考え直してみよう。本当は実現できる抱負を考えるべきなのではないか。実現できない抱負を掲げて、実際に実現できなかったとすれば、それは、抱負とは実現できないものなんだという信念と行動を強化する。行動理論はそう教える。実現できそうにない抱負は一方で壮大であるからよしとされてきた。実現できなくても壮大であればなかなかよいとされてきた。しかしそれは同時に自分に適切な目標を考えることの能力をないがしろにしてきたともいえる。

 自分がどれだけやれるかという正確な予測を立てることと、それに基づいて自分の限界のちょっと上に目標を立てるという能力は意外に多くの人が持っていない。そういう訓練をしてこなかったからだ。わずかの人は、そういう訓練をしてきて、その能力を持っている。自分のがんばりが成果としてフィードバックされる体験は「快」である。したがってそうした能力を持っている人は生涯に渡って、適切な努力目標を自発的に立て、それを完遂することによって得られる快によってますますその行動を強化する。それは競争や賞罰などの外的基準によるものではないために、その人の強力な行動原理になるのである。努力を苦と思わないでやれる人はこのようにして作られる。

 というわけで、今年も抱負を掲げよう。ちょっとの決心があれば実行できるもの、逆に言えば、ちょっとの決心がなければできないもの、それを考えるのだ。

・歩き遍路にいく

 十七番で止まっている四国遍路に行く。これもまた決心がなければできないことだ。ただ遍路に行くためだけに四日間休むのだ。ただそれだけなのだが、日常の仕事に流される日々では休むということが本当に難しい。お遍路に行くということが現世では意味のないことだからだ。そこで、意味のないことに意味があるのだということを学ぶ。生きるということを完全に裏側から考えることができる。

・投稿論文を一本書く

 ゼロでも二本でもないところがミソである。一本書くのである。あとにも先にもそれだけにする。締め切りのない投稿論文は決心しなければ決して書くことはできない。だから抱負にするには最適である。

・教材を一つ作る

 去年は、院生と松崎さんのおかげで、統計学のいい教材ができた。今年は、言語表現の教材を形にしようと思う。これはスタンダードがないという意味で、なかなかしんどい仕事ではあるが、それだけにやりがいはある。浦崎さんと協力して、形にしたいと思う。

・本を一冊書く

 依頼されて原稿を書くのではなく、完全に自分の構想による本を書くのである。本当のところを言えば、これは自信がない。というのは、構想を持って、いっしょに本を書こうと複数の人に持ちかけることをこれまでに何度かやったのだが、実現していないからだ。ここで学んだことは、自分がまずやらなければできないということだ。誰かと一緒にやるということは一人でやるよりは実現できそうな感じがするものだが、実際はそうではない。一人でやることが一番実現しやすいのである。これがいままでに学んだ教訓だ。

 それで一冊書きたいのだが、どうなるか。本の形になるかどうかは別にしても、本の分量になるまで書いてみようと思う。これは達成が一番難しい項目だろうが、もしできれば大きな自信になるだろう。