KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

億万長者ゲームから人生を考える

 正月は毎年暇を持て余す。そこで、プレイステーションでゲームにのめり込むことになる。ゲームは普段はめったにやらないのであるが、正月だけはフル稼働になる。正月は、神社にいくか、テレビを見るか、本を読むか、餅を食うか以外はほとんどゲームをしていた。

 今年購入したゲームは、「みんなのゴルフ」と「億万長者ゲーム」である。ゴルフのほうはよくできたゲームではあるが、ゴルフ以上のものはないのでひととおりやって終わりである。これで五千いくらするわけだから、ゲームソフトを買うのは賭であることがよくわかる。

 個人的に大ヒットだったのは億万長者ゲームのほうであった。これは売り出されてから時間がたったものを普通のゲームの半額ほどで再発売したものである。ソニーは音楽CDでもこのような戦略をとる。ソフトの重要性を心得たなかなか賢い戦略だ。この億万長者ゲームに正月ははまってしまった。

 億万長者ゲームはボードゲームをソフトにしたものだ。モノポリーや人生ゲームといったものもソフト化されているようだ。ボード版の億万長者ゲームをやったことがないのでどれほど忠実に再現しているのかわからない(そもそもボード版があるのかどうかも知らない)。

 億万長者ゲームのキャラクターデザインはお子様向けではあるが、本当の子どもには絶対おもしろくないゲームである。というのは、株や土地の売買などの駆け引きと金のやりくりがゲームの中核になるからだ。戦略を立てられない年齢の子どもにはできないだろう。

 ゲームの仕組みはこうである。最初に決められた金額を持ち、ルーレットを回しながら、双六のように進んでいく。途中止まったマスの土地や決められた地点を通過する際に購入できる株を買いながら、自分の資産が目標金額を越えたらゲームは終了し、資産額によって順位がつけられる。株は買い増していくほど値上がりし、また株に関連づけられた特定の土地に増資することでも値上がりする。他人の土地にはいると決められた金額を払わなければならず、そのとき現金が少なければ株を売る。そうすると株価は下がり資産が減る。このように、手持ちの現金をどのように分配して投資していくかが、ルーレットの数による偶然以上にゲームの勝敗を決めることになる。

 長い前ふりになったが、このゲームをやっていて、ほどなく学ぶことがある。それは、初期の段階の微妙な金の使い方やルーレットの偶然があとになって大きくきいてくるということである。いまはやりの複雑系理論で言えば、「初期値に関する敏感性」ということだ。平たく言えば、初めのちょっとした値の違いによって、それがあとあと巨大な違いとなって現れるということだ。これは「バタフライ効果」という名前でも知られている。南方のチョウチョ一匹飛んだときの羽ばたきが、その後、巨大な台風に成長することがあるという逸話がよく紹介される。

 さらに、ゲームに習熟していくにつれて、このゲームがまるでひとつの人生を凝縮してるのではないかという思いを強く起こさせる。時間は、ルーレットを回すという形で、逆戻りすることなく進む。偶然の数字にしたがって進んだますめは高い土地であったり、安い土地であったり、あるいは他人によってすでに買われている土地であったりする。そこを購入するのも、資金を投入するのも自分の決断ひとつである。しかし、その土地が投資を継続されるかどうか、あるいは中断されて売りに出されるのかどうかは、その後の状況次第である。その状況は、必ずしも自分の思い通りには進んでいってくれない。

 たとえば、三カ所の土地に百万ずつ投資することと、一カ所の土地だけに三百万を投資することは、数学的な期待値の計算からすればまったく等価な行為だけれども、状況次第でその効果はまったく違うものになる。まだ資金が潤沢ではない段階では広く浅く投資したほうがいいし、資金がある程度まとまってきたら、一カ所に集中的に投資したほうがその後の伸びが違う。こうした状況判断を間違えると、じり貧になったり、破産したりしてしまう。

 そこで、私にはこのゲームが人生の縮図に思えてしまう。人生というとなんだか大げさだが、たとえば一日でも一年でもいい、そうした人生の一区間でどのように資源を投下するかという決断がゲームを動かしていくのである。資源とは、自分の時間であり、能力であり、資金である。そうしたものをどう配分して、どこに投下するかという決断が人生というゲームを進めていくのである。時間も能力も資金も有限である。あることに時間を使うということは、別のことをあきらめるということだ。漫然と流されるまま、状況のままにゲームを進めていくことはできる。それで偶然にゲームに勝つこともあるかもしれない。しかし、自分で戦略を立て、自分の責任において決断することによってのみ、自分のゲームをおもしろくすることができる。勝っても負けても、おもしろかったということになる。