KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

子どもに名前をつける

 子どもが生まれた。初めての子どもである。もう四十になろうかという歳に初めての子どももないものだが、無事生まれた今は素直に喜びたい。男が子どもを作れる年齢のレンジは広く、指揮者のカラヤンは確か六十で子どもを作ったと聞いたことがある。体はよぼよぼでも精子が元気であればよいわけだ。しかし、六十で子どもを作ったとなれば、子どもが成人式を迎えるときには自分は八十歳になっているわけで、これは想像するとかなりすごい光景だ。まあ私の場合も、娘が成人するときには六十歳である。似たり寄ったりである。まあ、子孫に美田を残さずなのでいいのである。なんのこっちゃ。

 言い忘れたが、女の子である。さて、子どもが生まれると一番最初にしなければならない仕事は名前をつけるということである。名前をつけるまでは、この子は単なるひとりの赤ちゃんにすぎないわけで、たとえ通りすがりの人が「まあ、かわいい赤ちゃんね、マイちゃん」とか「ミキちゃん、ばあ」などと勝手な名前で呼んでしまっても文句は言えないのである。だから名前をつける仕事は最初にしておかなくてはならない。

 私はこの子がお腹にいて性別が判定できた時点からいい名前をつけるべく努力をしてきた。余談だが、女の子の名前は父親が、男の子の名前は母親がつけるといい名前ができるような気がする。それは自分と違う性の名前に対して、長い間敏感であってきたからである。好きな人ができるとまず最初に名前を知りたがるではないか。私に男の子の名前を考えろといわれても、一平太とか太郎丸とか平凡な名前しか思い浮かばない。まれに、父親が娘に自分の初恋の人(当然実際の妻とは違う人である。初恋は実らないものなのだ)の名前をつけることがあるようだが、あとでばれたときにもめるのでやめたほうがいい。むろん私はそんなことはしていない。

 名付けの仕事はまずリサーチから始まる。私がしたことは「ハッピータイム」をじっくり見ることであった。ハッピータイムとはローカル局の短いテレビ番組で、その日が誕生日の人の写真とメッセージを次々と流すというものである。人口の少ない地方コミュニティーでしか成立しない貴重な番組だ。そこに出てくるのはまれにおじさんやお姉ちゃんであることもあるが、大部分はかわいらしい子どもたちである。そこでその名前を観察するわけだ。

 最近の女の子の名前を観察すると気がつくことがある。ひとつは「○○子」という名前は絶滅したということだ。今や、「子」がつく名前は天然記念物並に珍しいものになってしまったのだ。『子のつく名前の女の子は頭がいい』という立派な学術書が出版されているにもかかわらず、世の中の親はこの本を読んでいないらしい(注1)。

(注1)金原克範「子のつく名前の女の子は頭がいい」(洋泉社、1995)。もちろん本当は逆は成り立たない。「子」をつけても頭は良くならないのである。

 もうひとつは当て字が多いということだ。これはイメージにあった漢字を使いたいということと、画数にいい、悪いがあるという占いが影響しているためらしい。当て字のために素直に読めない、難読名前が増えている。

 そこで私は方針を立てた。ひとつは当て字をしないことだ。向後(こうご)という名字すら読んでくれない人が多いのに、さらに難しい名前を続けようとは思わない。したがって、ひらがなの名前にした。ひらがなであれば、ふりがなの必要もない。人間一生のうちに何回自分の名前を書くかということを考えれば、ふりがながいらない、画数が少ない、しかもワープロの場合は漢字変換が不要、というメリットはどれほど大きなものになるか想像がつかない。娘は感謝するであろう。考えてみれば仮名は日本文化の大発明でもある。

 名前はこう決めた。「あいな」。意味は?とか由来は?と人は聞くが、あまり意味はない。もともとはエスペラントという人工国際共通語の単語からとったものだ(注2)。しかし、そもそも名前にあまり意味など求めるものではない。子どもが大きくなったとき自然に自分の名前に意味を付与することができるだろう。私は単純にこの名前の発音の美しさが好きなのだ。

(注2)[ajna] エスペラントで「どんな〜でも」という意味の副詞「ajn」(あいん)の形容詞形。エスペラント独自の単語で特定のルーツを持たない。また、aは形容詞語尾、jは複数形語尾、nは目的格語尾でもある。