KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

真実の徒

 上越教育大から富山大に集中講義に来てくださった田中敏(さとし)さんと、三日間昼食をお付き合いさせていただいたおかげで、普段できない研究の話をたっぷりとすることができた。それで今は充実した気持ちになっている。考えてみればこんなことは久しぶりのことだ。地方の大学で活動していて唯一の欠点と言えるのが、つまりこのことで、普段の話のくだけたレベルで割と真剣な研究の話をする機会が少ないということだ。

 「くだけたレベルの真剣な研究の話」とはどういうことかというと、たとえば今自分の興味がどういうところにあって、しかし研究方法論的にはいろいろと難しいところがあって、学界の流れとしてはこんなふうなのだが、自分はこんなふうに思っている、などといったことを思いつくままに話すことである。東京などの大都市圏では研究者人口密度が高いので、インフォーマルな研究会やらいろいろな会合やらでこういう話をするチャンスが割と高いのであるが、研究者人口密度の低い地方では確率が低い。そうしているうちに、「くだけた真剣な研究話」をすることを忘れてしまうのである。なぜこうしたことが大切かというと、研究を進めるためには、忍耐力と強力な動機づけが不可欠であり、研究話をすることによってそれを供給することができるからである。

 一方、研究の話をしなくなるとどうなるかというと、政治の話をするようになるのである(もちろん盆栽などの趣味の話を始める人もいるがここでは除外する)。政治の話とはつまり、学内政治や組織や人事の話である。一般的に人間は人事の話に敏感である。人間は社会的動物であり、人事とはその意味で社会の動きがいちばん端的に現れるものだからだ。人事の話にはそれがどんなに自分と離れた場所での話であるとしても感情移入できるのだ。だから人は人事の話や政治的闘争をおもしろがる。しかも政治の話には終わりがない。つまり結論がない。勝った負けたもはっきりしない。負けに見えた方が実は勝っていたりする。その奥深さが、人をして面白いと思わせるのである。

 研究の話をするか、政治の話をするかということは排他的である。つまり、一度政治の話をし始めた人は急速に研究の話をしなくなる。どういうことかというと、ある人が政治の話を始めたということは、その人が安定した地位についたということであり、もはや彼には研究を続ける必要がないのである(少なくとも日本では)。そして同じ忍耐力を発揮するならば、研究においてではなく、政治においてする方が彼にとって有利であるからだ。それでもなおずっと研究の話をし続けようと思ったら、政治の話はほどほどにしなくてはならない。少なくともそれに巻き込まれないようにする努力が必要である。しかし、一般的には政治の話に巻き込まれるということはその人の人生にとって喜ばしいことなのである。つまりそれは出世や名声ということにかかわっているからである。したがって、「本当は政治の話には巻き込まれたくないのだがね」というポーズを取るにしても、「俺はやるよ」というポーズを見せるにしても、政治の話にはいっていった人はそこから二度とは戻ってこないのである。ここで、研究か政治かという道は二つに分かれるのである。

 私は、研究者と呼ばれる人たちには二つのタイプがあると考えている。名前を付けるとすれば「真実の徒」と「成り上がりの道具」である。

 「真実の徒」は研究する動機がただひとつ「本当のところはどうなのか」を知りたいというところだけにある。ただ真実はどうなのかということを知りたいだけなのである。ただそのためだけに研究をすることを動機づけられている。一方、「成り上がりの道具」は、今その研究をすることが自分の人生や出世や名声にとって有利であるかどうかということに動機づけられている。もちろん研究者母集団は、極端な「真実の徒」から極端な「成り上がりの道具」まで幅広い分布をしているわけで、たいていの研究者は重みづけの違いはあるものの、この両方に動機づけられている。

 たいていの研究者はどちらの動機づけも持っていると考えられるのだが、しかし、私はその微妙な重みづけを、少し話しただけで瞬時に見分けられるようになっていた。つまり、その研究者が真実の徒であるか、成り上がりの道具であるかを鋭く弁別するのである。もっともこれはその弁別が正しいかどうかの検証が難しいので何とも言えない。しかし、自分はこの直観に自信を持っている。

 真実の徒は絶対数として少ない。なぜならば彼らは大学社会や研究者社会での生き延びの力が比較的弱いからである。成り上がりの道具は、当然、自分の研究を世間や流行のなかでもっとも有利になるように持っていくわけであるから、生き延びる確率が高いわけだ。しかし、真実の徒は直観的に仲間を見分け、見えない連携を作り出す。そうして絶滅を免れることになる。

 あえてリストを作るとすれば、真実の徒には次のような特徴がある。

  • 「べき」論、道徳論、ドグマを徹底的に疑う。
  • 流行、はやりすたり、学界の情勢を一歩引いて見る。
  • データの前に謙虚である。
  • 派閥や流派、いわゆる大先生、また、学問のなわばりに無関心である。
  • 研究に対する絶対的価値判断がある。

 しかし、なんといっても一番特徴的なことは、研究を心底面白いと思っていることだろう。彼らが研究の話をしているときの目の輝きこそが一番雄弁に彼らが真実の徒であることを物語っている。研究のおもしろさには、政治も人事も家族も子どもの話もかなわないのである。それが真実の徒のアイデンティティである。