KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

小難しさ指数

  • 何をまた、小難しいことを書いとるんけ?

 私の日記を読んだ妻からときどきこのように言われる。いや、なにも小難しいことを書いているつもりはないのだが、やはり日によってはなんだか小難しいことを書いているなと自分で思うこともある。

  • 「今日の小難しさ指数★★★」とか表示すれば?

 とさらに追い打ちをかけられる。

 文章が小難しくなってしまう原因は比較的単純である。たいていは、書き手が読み手の知識レベルを高すぎるところに仮定しているために、読み手の理解しない用語を前提なしに使ったり、背景知識がなくては理解できないところから文章をはじめたりすることである。よく講演などでは「皆さんすでにご承知のこととは思いますが…」といって聴衆の知らない知識をひけらかす人がいるが、これなどはまだ解説をしてくれるだけましと考えた方がいいだろう。以前、学校の先生たちを前にして講演をしたときに「教育のインフラ」という言葉を使ったのだが、質疑応答の時間に「インフラって何ですか?」という質問が出たのには冷や汗をかいた。もしこの言葉を知らないで私の話を聞いていたとしたら、内容の3分の1くらいは手探り状態だったのではないだろうかと。このように相手に合わせた話をするだけでもたいへんな仕事である。話をする場合は聞き手によるフィードバックがあるからまだいい。文章の場合は、フィードバックはあっても書かれた後のことであるから後の祭りであることが多い。だから、読んでくれて「小難しい」と指摘してくれる読者の存在は貴重である。

 読み手や聞き手としての自分自身を振り返ってみると、最近は「わかりにくさ」に対する耐性が落ちていることに気がつく。若いうちは、本を読んだり、講演を聞いたりしたときに、それがわからないのは自分の不勉強のせいだと思っていた。自分はわからないけれどもまわりの人はみんなわかっているのだと考えたので、「あなたの話はわからない」とか「この文章は難しい」と公然と言うことをためらってきた。しかし、今ではこういう考えに変わってきた。実は、自分の不勉強でわからないというケースは全体の半分以下で、過半数のケースは、話し手や書き手自身がわかっていないために、わけのわからない話を聞かされたり、理解できない文章を読まされたりするのである。だから、自分が理解できない文章を読んだときには、自分の不勉強を疑ってみるけれども、それ以上の重み付けで、その文章そのものがもともと理解できないものであり、さらに言えば、当の書き手自身も実はわかっていないのだという可能性を考えてみる。

 なにやら小難しい話になった場合は、実は書き手本人がわかっていないのだということを疑ってみる。「あなたの言うことはわからない」と相手に向かって直言することは日本人的心情からするとためらわれることかもしれないが、どんどん言いたいと思う。

 さて、今日の「小難しさ指数」は★いくつ?