KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「インターネット時代の教育と教師の役割」

 富山県総合教育センターの研修会で講演。演題は「インターネット時代の教育と教師の役割」ってなんじゃそりゃ。ともあれ、パソコンがどんなに高機能になっても、ネットワークがどんなに高速になっても、教授デザインの原理は変わらないよね、という話をする。「生徒一人に一台のパソコンと高速回線」という学習環境は早くかなえてほしいけれども、しかし、何よりも先生がインターネットできる時間的余裕を持てるようになるのが先決だよね。本当に教師は忙しい。その上、こんなような研修会もたくさんある。同情に堪えない。

 研修会の定員は20人だったのだが、何の気まぐれか11人しか集まらなかった。それでも熱心に話を聞いていただけたので、うれしい。それはいつも書いてもらう質問書を読めばわかる。とりわけ、今日の話で例に取り上げた、Web教材を使った個別教授システム(PSI)には関心を持ってくれた人が多かった。PSIは、小学校ではちょっと無理かもしれないが、中学や高校なら実施できるはず。もし実現できれば、一斉授業ではない形式の授業があるんだ、ということを生徒は体験することになる。それは「学ばされる」のではなく、自分の判断と自己ペースで、ある学問領域を勉強することができるのだというよい体験になるかもしれない。そういう体験をした人は、生涯にわたって何かを学び続けるのではないだろうか。

 6月の新潟県総合教育センターでの講演もそうだったが、ここ数年、このような講演依頼がぼつぼつ舞い込むようになってきた。話をすることは嫌いではないので、たいていお引き受けする。しかし、それがいいことなのかどうかよくわからない。むしろ、こんな人(私)を指名してくれた勇気に感謝すべきなのだろう。

 私は話を始めると、ハイになり、早口になり、あることないこと話し始めるので手がつけられない。それが長所でもあり、欠点でもある。しかし、話を終えると、ぐったりする。あることないことしゃべったことに対して、ちょっぴり後悔する。話すたびに、わかっていないこと、問題が解決されていないことが、山積みになっていることを痛感する。それを、さもわかっているように、解決されているようにしゃべってしまったことに対する後ろめたさがある。だが、それは、これから研究したり、実践したりすることでしか解決しようがないんだよなあ、とつぶやく。講演することの第一の利点は、解決すべき課題がクリアになることだと思う。

 講演代がもう少し高いものになれば、講演で食っていくことも現実味を帯びる。しかし、今の相場ではちょっと無理だ。せめて『自己表現力の教室』を宣伝して、売る。今回の講演でも、10人程度の受講生にもかかわらず、7冊も売れた。しかも今回の講演は「自己表現」とは直接関係がないにもかかわらず、だ。講演をしながら本を売るというのはいいかもしれない、と密かに思い始めている。まあ、その前によい本を作ることが先決なのだけれどもね。