KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

東大に合格した、さて…

 東京大学佐伯胖さんが、新入生にこんなアンケートをしたそうだ(1997年9月の教育工学会での講演より)。

「東大に合格した、さて ____________ 」

 という質問で、下線の部分に文章を考えて記入してもらうというもの。そうしたら「わからない」という回答が続出したというエピソードを紹介していた。

 その時は、会場に集まった聴衆と同じように、私も「ふーむ、なるほどね、いかにも」「東大生ってとこがミソか」などと感心していたが、よく考えてみれば、東大に限らずどこの大学の新入生でも、この空欄に「私はこれだっ」といって書き込みができる人というのはごくわずかだと思う。

 それはともかく、佐伯さんが言いたかったのは、人間の行動に次の2種類があるということだ。

  • 自己関与型 と、
  • 課題関与型

 自己関与型というのは、「そのことで自分がどう思われるのかが気になる」という行動のタイプ。つまり、今自分がやっていること、考えていること、書いていること、こうしたことをすることによって、他人によって自分はどう見られるのかということを予測し、それが自分の行動を制御しているというものだ。自分が自分の行動を決めるのではなく、自分を見ている他人の目を想定してそれが自分の行動を決めるわけだ。内在化された他人が自分を操るというわけですな。

 一方、課題関与型というのは「自分がやっていること、そのものが面白い」という行動のタイプである。目の前にある自分にとって面白い課題や仕事だけが自分の行動を決める。そこには他人の目は介在しないし、影響を及ぼさない。ただその仕事が面白ければやるし、つまらなくなればやめる。それを決めるのは自分の感覚、感性、意志だけだ。(Here, nowの感覚に近いというと、アレかな)

 もちろんこの二分法も完全な0/1の世界ではなく、いずれの行動にも両者の性格が入り交じっている。自己関与型が一方的に悪いというのでもない。「内在化された他人」がいなければ社会生活なんてのは不可能だしね。課題関与型オンリーでいけば、山下清の世界(?)にはいる。それはそれで幸せな人生かも知れない。

 しかし、自己関与ばかりで自分の行動を決めていると、いずれ自分が本当は何をやりたいのかがわからなくなる。それは、他人の目や風評によって自分の意志を決めるということだから。ここに至って、最初の東大新入生のアンケートの結果に連結する。つまり、「○○大に合格した、さて…」の文章が続かない人は、自己関与だけでそこに至ってしまったことを示唆しているということだ。

 別件ですが、赤尾さんのページにシンポジウムの様子が書かれている。その中に素敵な言説があったので、思わずここに引用。

ただ,これだけは言える。わたしにとってweb日記は,理想的な新聞,望ましいジャーナリズムなのだ。たとえば,淀川長治の死去について,さまざまな立場の方の生の声を聴ける。通常の新聞だと一部の文化人や新聞記者による感想しか読めない。少し日をおいて「読者投稿欄」で選ばれた感想を読めるだけだ。

日々起きている出来事や風景について「雑感」を伝えることが,実は新聞の本質だと思う。極論すれば,報道は付随的なものでしかない。老若男女,立場もさまざまな人たちが毎日,「雑感」を伝える場が用意されている新聞。それが,わたしが考える「理想の新聞」である。そういう意味で,web日記を読むことは,一人一人が自分なりの「理想の新聞」を編集していくことではないかと考えている。