KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

電子的議論論その後

 先月話題にした電子的議論論---電子的な場でおこなわれる議論では生産的な成果が上がったものを見たことがない---についてはたくさんの人から意見をもらった。少し遅くなったが、メッセージが掲示板から消える前にこちらに再録させていただく。次はその抜粋で、全文はこの文章の最後に載せてある(改行等変更有り)。

  • りなりなさん:ネット上の議論は、大体は私も巻き込まれ型なのですが、毎度毎度「これで最後になってくれよー」と思いながら次のアクセスでもっと話が広がっていたりすると、「いつまでこんなこと続ければいいんだろうか」と逃げ出したい気持ちになりながら続けてることもよくあります。(…)そこから何か学び取れるものがあれば、それはそれでいいかな、とは思っているのですが、今のところ「もう、議論は沢山だ」という気持ちしか浮かばないです。
  • washiさん:当事者間の意見の差異の解消のみが生産性ではないのではないでしょうか。あるテーマを顕在化させ、その対立点を明確にし、観客に考えるきっかけと材料を提供することも十分有益なことかと思います。その有益性を認める場合には、電子的な議論は、またとない舞台ではないかと。
  • shiroさん:本当に伝えたいことを伝える手段として、論理による説得が悲しくなるほど無力なことは、ネットの世界だけでなく現実の世界でも同じだと思います。(…)その壁を超えるのは、芸術しか無いんじゃないかと思っています。(…)極端な話、人の生き方そのものだって芸術に成り得るんですが、論理を飛び越えて伝わる「何か」が必要です。
  • autumnさん:どういう時に不毛と感じたかについて考え、これまでに考えたことを自分なりに整理してみたところ、「現在進行中の議論が次に活かされていない」場合に多く感じました。その理由は議論時のテーマ選定が誤っているからだというのが僕の結論です。
  • 櫻さん:所謂「フォーラム」に比べて人がツッコんでくる割合が低いので、自由な反面勝手気侭になってしまい「皆で考えよう」的役割には、少し適さないだろうなあと思っている次第です。

 確かにwashiさんが言うように、意見の差違の解消だけが議論の目的ではない。では、いったい議論をする目的はどこにあるのだろうか。実はこれが当事者同士の間で共有されていないことが、非生産的議論のおおもとであるような気がする。対立点を明確にして、観客に考える材料を与えることが目的の視野に入っていれば、それは生産的な議論になりうるが、多くの議論はそうなっていない。

 目的が共有されていない限り、議論というのは無限に反論できる。つまり、終了条件の規定されていないループ構造のようなものだ。そういうときにautumnさんのいうように、進行中の議論が次に活かされなかったり、そもそもテーマ設定が誤っているということになる。テーマ設定は議論の目的がはっきりしない限り適切にはできないものだ。

 櫻さんは、自分のWebページではフォーラムに比べてつっこんでくる人の割合が低いということを指摘しているがその通りだと思う。それが悪く働けば「裸の王様」になってしまう危険はある。しかし、私の感じではむしろ「裸の王様」になる危険性よりも、適切な「ホスト感覚」を持ってWebページを運営することが多くの人にうまく働いていると思う。そしてそれが次々と個人ページが開かれる原因のひとつだと考える。

 Webページのホストはそのページ群の編集者であり、これがうまく働いている。電子会議でも編集人(モデレータ)がいるところといないところでは大きく違う。しかし、モデレータは好きでやっているならともかく大変な仕事である。Webページのホストはモデレータの役割を義務的ではなく自然な仕事として果たしている。これは仮説だが「編集されない議論はあまり意味がない」と思う。それがレビューが書かれることの意味だと思う。Webホストはレビューアーの役割をそれとは知らないうちに果たしている。