KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

電子会議はなぜ生産的にならないのか

前にも書いたことがあると思うのだけど(98.11.19「電子的議論」論)、電子会議室やメーリングリストで生産的な議論や意見交換ができたことがあるだろうか。僕はね、電子会議室での生産的で興味深い議論や、どんどん先を読みたくなるようなメーリングリストでのやり取りをほとんど読んだ記憶がないんだよ。

——悲観的な調子で始まったな。あなたはニフティの外国語フォーラム(FL)でパソコン通信を始めたのだったね。

いや、アスキーネットなんてのもあったんだが、それはどうでもいい。ニフティの外国語フォーラムでバトルの修行をし、心理学フォーラム(FPSY)を立ちあげたりして、もう十年以上も関わってきたわけだ。だけど振り返ってみると、あの膨大なメッセージのやり取りは一体何だったのかということ考えざるを得ないんだ。

——それで最初の言葉になるわけか。しかし、バトルの修行をしたという割にはうまくなってないな。

ははは。どうも向いてないらしい。こんなふうに君と話しているのが一番ぴったりしている。

——まあ、これだけの人がやっているのだから、電子会議も少しは生産的なことを生み出しただろう。

そう。確かにそこからいろいろな出会いが生まれただろうし、それをきっかけにして本も出版されたかもしれない。それは生産的と呼んでいいだろう。しかし、それが起こったのはほんの一握りの人においてだ。1パーセント以下の話だ。それはあまりにもむなしい確率ではないか。

——あなたがむなしがってもしかたないよ。文字になっているとはいえ、実際99パーセントは井戸端会議なんだから。井戸端会議が生産的か、なんていったってしかたないだろう? 井戸端会議は生産的ではなく「消費的」なんだ。それはそれで意味のあることだ。ストレスが解消できるとかね。

しかし、電子会議やメーリングリストに参加する人たちは、全員が消費的なやり取りを期待しているだけじゃないだろう。それよりは、少しでも生産的な話をしたいし、聞きたいと思っているはずだ。しかし、冷静にやり取りされるメッセージを眺めてみると、面白い議論の代わりに大部分を占めているのが次のような種類のやり取りだ。

  • 「バトル/けんか」:たいていの場合泥沼化する。
  • 「内輪受け話」:外野は何のことやらわからず、疎外感を持つ。
  • 「質問→回答」:「もっと勉強してこい」という回答もときどき見られる。

——ははは。まあそうだな。しかし、この三つはすべて存在理由があるな。バトルが面白いのは、自分がどちらの側につくべきかという、生き延び戦略のシミュレーションをしているのだから、ギャラリーは本能的に引きつけられるというわけ。内輪受け話は、お互いの敵味方を確認し、仲間を作って外敵から自分を守るという本能に導かれている。質問/回答は最も功利的なネットワークの使い方だ。「もっと勉強してこい」という回答も功利的な反応だし、そうして退けられるリスクを計算しても、ただで他人の知恵を拝借できるという魅力は大きい。要するにこの三つのパターンはみんな理由あってのことだ。

じゃあ生産的な議論は?

——それをやるためには参加するメンバーがそれに同意していることが必要だ。議論を生産的にするためにはメンバーの努力が必要なんだよ。力を合わせようという意志と実際の努力。それがない、雑踏のような会議室やメーリングリストでやろうとしても無理だな。

そうかもしれない。しかし、さらに言えば会議室やメーリングリストというシステムそのものが生産的な議論に不向きなのではないかと考えているんだ。これは98.11.19の日記のnackyさんや赤尾さんのコメントと合わせて読んで欲しい。つまり、

  • 常に細分化していく力学が働くため、大本の流れがつかみにくい。
  • 言葉尻にこだわる力が働くのでフレーミングが起こりやすい。
  • 大量の投稿が一度に来るときと、投稿が全くないときの差が激しい。
  • 投稿が大量に来れば人間の処理能力を簡単に超える。

というような点だ。特に「>」で始まる相手の発言を簡単に引用できる機能は、功罪あるとしても、罪の方が大きい。このために、話は常に細分化され、細分化されるほど非生産的になる。合意よりも反発を産み、寛容よりも不寛容を招く。

——システムそのものに問題がある、か。今まであまりにも当たり前に電子会議システムやメーリングリストを使ってきたから、気がつかなかったのかな。

それでね、「電子的座談会」というのを考えているわけ。