KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

映画「マトリックス」にマンガの影響

 どうもFastCounterの調子が悪いようだ。一度35000から30000にリセットされたことがあるけれどもよく確認していなかった。そうしたらもう一度35000あたりで30000にリセットされてしまった。なかなか40000にたどり着けない。

 そこで今は休眠させているニフティのページのカウンターをリセットして置いてみることにした。しばらくふたつのカウンターが動きますがご了承を。ページの一番最後に置いてあるので、たとえアクセスが遅いときでも適当にストップしてもらえれば迷惑は最小限ですむでしょう。

 さて、遅まきながら「マトリックス」を見てきました。ちなみに私は映画は好きですが、年間に2,3本しか見ていません。大学生時代は、「名画座」というのがあって、古い映画を2本立てか3本立てで500円で見ることができました。そのときは、何をやっていても毎週見に行ってましたけれど。

 「マトリックス」面白かったです。まだ見ていない人は(もうそろそろいないと思うけど)以下の文章は先入観になるかもしれないのでまだ読まない方がいいです。ちょっとポーズ。

 まず映像表現で面白かったのは、タイトルにも書いたけど、マンガ表現の影響が見られたこと。たとえば、拳銃の弾のあとが空間のねじれというか風が吹いたあとのように描かれたり、また、弾丸を超スピードで身体をよじって避けるシーンでは、その身体を残像が残るようにいくつも描いていた。これは基本的に静止画の連なりでコマを進めていくマンガで動きを表すときに使う手法で、もともと動いている映画では必要のない表現法だったはず。それを、弾丸の後に線をひき、残像をいくつも描くことによって映画をマンガ化しているのではないか。マンガ世代にはこの表現は抵抗がないし、むしろ効果的で面白い表現になっていた。

 全体として(いい意味の)マンガ的で、スポーツをやった後のような気持ちよさが残る。特にカンフーの修行をするところなんか、動きとリズム中心の音楽がマッチしていて、こちらまで身体が動いてくる。

 ストーリーとしては、ひとつの典型パターンかな。つまり、普通の人だった者が、なぜか「選ばれた者」になり、厳しい修行を経た後、本当の自分に目覚める、というパターン。そこでは、予言者や修行を導く指導者が主人公の脇を固める。これを現実に投影してみると面白い。

 誰でも今の自分に何らかの不満がある。「本当の自分」を発揮していないと思う。本当の自分はこんなものではない。自分はもしかすると選ばれたものかもしれない。そしてしかるべき「努力と修行」をすれば目覚めるのだ、というファンタジー。それが観客の共感を得るのだろう。予言(神秘)と努力(現実)とかうまく組み合わされているところがアメリカ的と言えるかもしれない。

 人工知能(AI)が意識を持って、人類を支配するというパターンは他のSFでもある仕掛けだが、ちょっとAIを買いかぶりすぎのような気もする。意識を持つまでのブレイクスルーは次の世紀中に出てくるのだろうか。なんていっても興ざめか。

 最初に出てきたハッカー(クラッカー)兄ちゃんが、なんかカッコ悪くて、「これがもしかして主人公?」といぶかりながら観ていたのだけれど、最後になってカッコ良くなりました。エンディング・ロールで、ハッカー兄ちゃん役の名前が「キアヌ・リーブス」と出てきたので、そこで初めて「ああ、これがよく聞くキアヌだったのだ」と気がつきました。いいぞっ!