KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

文章読みとりの「顔」効果

 のれん日記の10/26にこんなくだり:

最近、困っていることがあります。/今から2週間ちょっと前に、私はオフ会に出かけたのですが、それ以来、そのオフ会に参加していた人の日記を読んでいると、頭の中に、その日記書きさんが、出てくるようになってしまったのです。/読んでいるあいだは、その日記書きさんが、ずっと頭の中にいて、日記を読んでいる私を見守っています。(ちなみに、頭の中に出てくる日記書きさんたちは、いつもオフ会の日に着ていた服を着ています。)/……気が散って、読みにくいのです。

 これは、あるなあ。私の場合、たとえば、プチ日記の名倉さんは、いつもひょうひょうとした感じで、表情を一切変えずにギャグをとばすあの名倉さんである。だからプチ日記を読むときは、そのイメージが見え、あの声が聞こえてくる。だから、といっていいのか、プチ日記がやたら面白いのである。名倉さんに会う前は、プチ日記はただ「面白いだけ」であったが、会ってからは「やたら面白い」にグレードアップしてしまった。一読者の希望としては、これ以上面白くならないようにお願いしたい。仕事に差し支えるので。

 一度、その日記書きに会ってしまうと、日記を読むたびに顔が見え、声が聞こえる。オフ会が嫌いではない私にはそういう人がけっこうたくさんいる。れんさんのように気が散って読みにくいという場合もあるかもしれないが、私の場合は、文章のピントがぴたりと合う感じで、読みやすくなる。逆に、まだ会ったことのない人の日記は愛読していても、ときどき文章の読み取りがぼやけるような、そんな感じがすることがある。

 話は一気にとぶが、学術雑誌の論文にその著者の顔写真を載せる場合がある。工学系の雑誌にはよく載っている。これはいったいどういう効果を狙ったものなのだろうか。顔が呈示されていることによって、その論文内容も理解しやすくなるということが、ひょっとしたらあるのかもしれない。もちろん挿し絵や説明図によって、関連する文章の読み取りは良くなる。これは当然だといっていいけれども、作者の顔を呈示するだけで文章が読みやすくなるのか。

 I/O Exceptionsの10/21に、安本美典『説得の文章術』(宝島社新書、1999)が紹介されている。その中に、「人間は人間に一番興味を持っている」ということが書かれている。ヒューマン・インタレストということだ。文章読解の顔写真効果があるとすれば、これに関係があるのかもしれない。