KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記猿人ヌーディストビーチ論・再考

 日記猿人Web日記を書くということについては、これまでさまざまなメタファーを作り出して書いてきた。たとえぱ「Web日記はジョギングのようなものだ(一日休むと再開がつらい)」というように、思いつくメタファーにはどこかしら共通点を見つけることができるので、厳密な議論にはならない。メタファーには拡散的な思考を促すという効果があるので、むしろそれを楽しむのがいい。

 日記猿人のメタファーとして自分で気に入っているのが、「日記猿人ヌーディストビーチ論」(99/02/27)だ。本来秘密であるべき日記を書いてそれを公開するのは、これ以上ない自己開示であるから、それはヌーディストビーチにいるようなものだ、と。ビーチの中ではみんな裸だが、ビーチから出れば普通に服を着ているのだ。ビーチのメンバーが一致団結するときはビーチ荒らしが起こったときくらいなもので、それ以外は互いに、性別、年齢、職業などあらゆる社会的バックグラウンドに共通性のない人々が集まるのである。ただヌードであることを楽しむために。それはコミュニティとは呼べない。とまあ、こんなことを書いた。

 フィクションあるいはフェイクのWeb日記を書いている場合は、ヌードになっているとは言えないのではないかという反論が出そうだ。たとえば私もファンの「いもむし日記」など。作者が本当にいもむしのわけはない。しかし、フィクションでもフェイクでもいいのである。私の本当の作者がどんな名前でどんな人なのか知らないし、知る必要もない。知ったところでどうなるというものでもない。ストーカーじゃないんだから。ただそこに書かれたものをすべてとして読んでいるだけ。それが作者の姿だとして読んでいる。それがヌーディストビーチのルール。

 女子高生じゃない人が女子高生のふりをしたり、男が女のふりをして(いわゆるネカマ)日記を創作するということは、ありそうだ。でも、それでもいい。その人が自分を開示する方法としてそれを選んだのなら、納得できるのだ。それが本当の作者の姿ではないと誰が断じられるだろうか。作者自身にすらそれはできない。

 しかし、ヌーディストビーチ論に限界があるとすれば、日記猿人の投票制度や日記読み日記といった現象だろう。ヌーディストビーチではヌードのコンテストや品評会はやらない(ように思う)。本来ヌーディストだけを受け入れるのがビーチなのだが、実際には読者というかギャラリーがはいっている。このことが、ヌードをただひたすら自然なものとして受け入れられるか、あるいはよこしまな感情を引き出してしまうものとして見てしまうかの分岐点なのだろう。それは読者がいることが問題なのではなくて、ヌーディストが読者をどう意識するかという一点にあるような気がするのだ。

 日記という形式にもかかわらず、あまりにも読者を意識しすぎると、「内省」という日記の大切な要素を逃してしまう。