KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

プラットホームとしての日本語

 高知大学から吉倉さんを招いて、高知大学での共通教育(教養教育/一般教育)改革や「日本語技法」という科目についての話を聞いた。今まで教養教育や一般教育と呼ばれていた大学の入門教育に「共通教育」という名前を付けたのは、「学部や専門にかかわらず、大学に入学し卒業したからには共通に持っているはずの技能」であるという意味合いを込めている。高知大学では全学部で、次の科目を必修にしている。

  • 「大学」学: 大学での学び方を学ぶ
  • 日本語技法: 富山大学では「言語表現」に当たる
  • 情報処理1、2: リテラシー教育と演習
  • 大学英語入門、英会話
  • 健康

 繰り返すが、これらの科目すべてが全学部で必修である。そのため、たとえば日本語技法ではそれを第1専門としていない教員が100人ほど動員される。当然予想されるように、これらの科目の立ち上げには大きな苦労が伴った。しかし現在ではそれをシステムとして動かしている。お題目だけではない「大学改革」の実例である。これから先、このような決断力と実行力がなければ、地方国立大学は泥船になってしまうだろう。高知大学がこの意味で成功していることは、学生の大学に対する評価がこうした共通教育の科目に対して非常に高いということで裏付けされている。こうした改革によって大学そのものに対する人気も高まってくる。

 「日本語技法」の立ち上げには多くの苦労が伴った。その原因のもっとも大きなものは、学内の教員からの反対なのである。典型的には「日本語技法などという科目でわざわざ教えなくても、卒業論文を書くまでに添削指導をするし、プレゼンの練習もしている」といって科目の新設に反対する。しかし、それで充分だったのか? 毎年、毎年、飽きもせず「今年の学生はまったく文章が書けないし、満足に話せない」という愚痴をたたくだけで、効果的な教育を開発できずにいたのではないか。何も小説や気の利いたコラムを書かせようというのではない。誤解なく伝わるシンプルな日本語の技術を教えようとするのだ。「その日本語の技術こそが、大学での知を支える共通プラットホームになるのだ」というのが共通教育のコンセプトである。

 人は自分が学んだように、他人に教えようとするものだ。自分で見よう見まねで学んだ人は、後輩にも同じようにやってみろと言う。また、ある人の弟子となり密かに技を会得した人は、自分もまた弟子だけにそれを伝えようとする。こうした形は確かに教育のひとつの形態ではあるけれども、教育の方法はそれだけではない。つまり、

  • 「見よう見まね」から「体系的学習」へ
  • 「一子相伝の技能」から「伝達可能な技術」へ 

 という拡張がされる。こうした拡張により、内容は秘技ではなくなり、オープンになり、薄められ、均一化され、標準化される。それをある人たちは嫌う。つまらないといい、底が浅いというわけだ。できれば日本語を閉ざされた世界のものにしておきたいのだ。しかし、標準化された日本語の技能を身につけた上で、そこから勝負は始まるのではないか。「日本語技法」という科目の開設は、大学を閉ざされた世界に安住させることなく、大学にまつわる幻想をうち砕くための仕掛けとも見ることができる。つまりそれは、まやかしの衒学的なコトバを排除する勢力を生み出すことになるから。