KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

Web日記は書くことの訓練になるのかどうか

 こうしてほぼ毎日Web日記を書いているわけだが、はたしてこれは一般的に「書くこと」の訓練として有効に働いているのかどうか。という質問を考えてみる。

 まずひとつ確かに言えることは、

  • 書いていて、前よりも書くのが下手になることはない

 ということだろう。継続的に書き続けることによって、そのスタイルや構成や話の運び方が型にはまり、マンネリになるということはあるかもしれない。とりわけ日記は自分が書いていて一番楽なスタイルに落ち着くようだ。しかし、そうであっても、「ああマンネリだなあ」と気がつくこと自体が進歩であって、それは書かなければ気づかなかったことだ。

 しかし、Web日記は書くことのスタイルについて新しい試みをするという意味においてはあまり効果的ではない。毎日書くからには、それが自分のスタイルに合ったものでなければ続かないからだ。それは人それぞれに一番楽な歩き方があるというのに似ている。Web日記の文章スタイルについて、読み手から「改行の使い方がうまいですね」とか「よくあんなに長い文章が書けますね」という賞賛が贈られることがよくある。しかし、それは本人にとって一番楽な書き方なのだ。継続的に書くことによって一番楽な歩き方を見つけだしたのだ。それは文章の長さですら、一定のペースを保つようになり、自分のスタイルとして定着する。毎日書く人は、時々書く人よりも、文章の長さの分散は小さくなっているはずだ。長く書く人も、短く書く人も、自分のスタイルとして定着すれば、一定の分量で書くようになる。

 さて、もうひとつ言えることは、

  • どれだけ継続的に書いていても、書くことが楽になるということはない

 ということだろう。毎日Web日記を書いていても、それが原因で他の文章を書くことが楽になると感じることはまれだ。そもそも日記ですら、「今日は楽に書けた」とか「知らないうちに書けてしまった」と感じることはない。もちろん書くことが「楽かどうか」ということは主観的なフィーリングであるから、第三者から見て苦しんでいるように見えても、「いや、楽に書けちゃいました」と言われればそれを信じるしかないのだが、そういう人には会ったことがない。

 「書いていて下手になることはない」という1番目の観察から考えると、書いていれば少しずつ上達し、上達することによって自分が書くものに対するハードルを少し上げる。そのために、書くことが楽になることはない。ハードルを自分で上げているのだから。ということは言えそうである。年を取ってくると、自分が過去に言ったことを繰り返すようになる。それが一番頭を使わないからだ。現に私も、自分が過去に日記で書いた内容と同じものを、新発見だといって書いていたりする。そういうケースは比較的「楽に書ける」。楽に書けたときは、書いた内容を疑ってみる必要がある。たいていは一度書いたものの焼き直しだ。

 そうすると、書くのが難しい、うまく書けない、というのは、意外といいことかもしれない。それは、少なくとも焼き直しではないという可能性があるからだ。