KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

実用日本語を教える人がいない

 AERAの2000.1.10号で加藤秀俊が「日本語」というタイトルでコラムを書いている。私たちは、日本語という意味で「国語」という呼び方を使うけれども、それは自分たちの言語を客体化しようとしない閉鎖性の現れではないのか、と言っている。また、「国語国文学」と言われるように国語の先生は、文学の鑑賞や読解をまず中心に置いているため、実用的な話し言葉の訓練はなされないままに現在に至っている。

 富山大学では新入生を対象として、話すことと書くことの訓練をしている。理系文系を問わず、全学部の学生を対象とした「言語表現」という教養基礎科目がそれである。この科目を担当しているのは、それぞれの学部から自発的に申し出た20数名の教員である。しかし、その中に「国語」を専門とした教員は一人もいない。このことは象徴的な事実であるし、また加藤秀俊が指摘していることの裏付けデータといえる。国語の教員は、実用的な日本語の教育に無関心であるか、あるいは、自分にそれを教える能力がないと考えている。

 とすれば実用日本語を教えるのは誰なのか。言語表現科目を担当する教員は全員、日本語の専門家ではない。第1専攻が日本語である教員は一人もいない。日本語を教える専門の教員はこれとは別にいるけれども、彼らはおもに留学生を対象とした「第2言語としての日本語」を教えている。実用日本語を教える教員は見事に空白領域になっている。これは日本中どこの大学でも同じ状況だろう。

 このコラムには、面白い事実が紹介されている。1943年に土井光知(こうち)という人が『日本語の姿』という本を著した。その中で彼は「基礎日本語」という概念を提唱し、900語の日常語と200語の知識語だけを使えば、すべてのことは言い表せると主張した。850語の基本単語だけですべてを表現できるとした、オグデン・リチャーズのBasic Englishの日本語版である。

 日常語900と知識語200という単語にどのようなものが選ばれたのか、興味があるところだ。日本語の場合は、漢熟語を作る柔軟性があるので、これくらいの単語の量でもかなりいい線いくのではないか。もっともBasic Englishの場合も、動詞と前置詞の組み合わせでさまざまな熟語が生成できるので、850語というのを額面通りに受け取ることはできない。学生時代に英熟語を暗記するのに苦しんだ人は多いはずだ。

 Basic English以降、語彙を制限することによって、外国語の習得を速めようとするアプローチは下火になったように感じる。語彙の制限が根本的な解決策にはならないということが明らかになったからだろう。